犬一匹、松の木ひとつ、噺の中へどうやらそれらしく描きだすことができてきた、全くそれもまたみんなみんな師匠のおかげではないか。
そうして師匠は昨夜大そう怒んなすったけれど、現在師匠に教わらない我流の噺のこんなにも演れだしたということも、私のほうではこれ皆ひとえに師匠が丹誠の賜物とおもっているではないか。
なればこそ、急用あって四手《よつで》駕籠へ乗り四谷の師匠の家の前を素通りするとき、ほんとうに師匠はしらないだろうが、いつも必ずこの私は、
「いって参ります師匠」
またかえりには、
「只今かえりましたがきょうはお伺いできません、どうぞお大事に」
こう駕籠の中で呟いていることが始終《しょっちゅう》ではないか。これを要するに、かくまで、かくのごとくにまで、一から十まで百まで千まで師匠おもって、おもい抜いて止まらざるこの私ではないか。
だのにだのに……だのに師匠はあんなひどいこといってお怒りなすった。こちらに覚えのあることならどんなにも御詫もし、改めも致しましょう、だが正直一途の貧乏人のあばら家へやってきて、大刀突き付け金銀財宝残らずだしてしまえというようなとんでもないこといわれても、どうしていいやら困ってしまう。
ああこれほど自分のおもっている真心が、さりとてはまた情なや、四谷なる師匠が夢枕へはかようすべ[#「すべ」に傍点]とてはないのだろうか。
師匠、師匠。
分って下さい。
どうかこの私を分って下さい。
圓太をお可愛がりなさるのは御勝手だけれど、この私を裏切り者だなどとおっしゃられては、私は……私は……なんで……立つ瀬が。
いつかまたしてもボタボタ涙で欄干《てすり》を濡らしていた。
「オ、おどろいた師匠、情ねえよ俺」
いつの間に立っていたのだろう、頬膨らました萬朝が急に後から肩を叩いた。
「…………」
ドキンとしたように振り向いて圓朝は、あわてて華奢な手の甲で涙を隠した。
「いま俺、あまりくさくさ[#「くさくさ」に傍点]するから富士見の渡しンとこまでいってボンヤリ立ってたら、渡し舟ン中から馬道師匠が上がってきてね、すっかり聞いちまった圓太のことを」
今度急に圓太が看板を上げられたのは堀留のほうの船宿の後家さんをほかして入り込み、そこへ圓生はじめ三遊派の主立った人たちを毎晩のように連れてきては酒よ妓《おんな》よとチヤホヤもてなした、三遊派の人
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