萬朝。いい子だいい子だ。よく分っておくれだったねえお前」
子供にでも話すよう、やさしく涙に濡れた声で、
「でも、でも、お前にこんな芸のほかのことで苦労をかけるなんて、私が……みんな私が至らないからだ。しがない師匠を持ったためによけいな苦労をかけさせてねえ萬朝、ご、ごめん……」
「ト、とんでもない」
めもけ[#「めもけ」に傍点]に大きな図体が動いて、
「お、俺のほうこそ、し、師匠が……師匠が……あまり可哀想で……可哀想で……」
ワーッと萬朝は泣きだしてしまった。かかえている圓朝の手へ、たちまちボタボタ熱涙がふりかかってきた。おお、この涙の熱さこそ、愚かしい、しかし愛すべきこの一人の弟子が命賭けて己の上をおもうてくれている真心の熱さに他ならないのだ。そうおもうとき、ヒシヒシ身体中が、嬉しさ悲しさ入り乱れたものに締め付けられてきた。不覚の涙がホロホロホロホロ圓朝もまたあふれてきた。そうしてそれがはふり落ちた、今度は萬朝の肩のあたりへ。己の涙と萬朝の涙と、いや己の喜び悲しみと、萬朝の喜び悲しみと、思いを同じゅうしたこの師匠と弟子の魂と魂とは、今ぞ今身も世もあらずピッタリと触れ合い、溶け合い、抱きしめ合って、早春《はる》の夜更けのこの路上、いつ迄もいつ迄も悲しみ、嘆き、泣きじゃくり合ってはいるのだった。
星が流れて、いつか雪風が。あかあかと灯の洩れている楽屋障子の彼方からはまた憎々しい高笑いが、流れてきた。
五
忘れているだろうか、私は師恩を。
翌朝、すみだ川を前にした部屋で、トックリと自分の胸へ手を当てて圓朝は、考えてみた。
……昨夜のことをおもうとき、圓朝の心の中はドンヨリと重かった。水|温《ぬる》むといいたげないろをめっきり川面へただよわせてきているすみだ川の景色もきょうばかりは曇り日のよう暗く見えた。ホンノリとした青空さえが、果てしらぬ灰いろの帳《とば》りかと感じられた。
この私の近ごろの「芸」のいろいろさまざまと小手の利くようになってきたこと、一にそれは師匠の薫陶のほかにはないではないか。
雨降《あまふ》り風間《かざま》、しょっちゅうそればかり考えない日とてはない私ではないか。
ほんとうに師匠なくして私にこうした「芸」の深さ苦しさ愉しさ、どうしてすべての秘密の分ろうよしが、あっただろう、それのみ心から感謝しているこの私ではないか。
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