い主従睦み合っているこの景色のめでたさ和やかさ。自《おのずか》らジーンとさしぐまれてくるものがあった。修羅場《ひらば》の真似をして石の狐の片耳落としたあの少年の日ののどけさが、ゆくりなくもいまここにうれしく蘇ってきたのだった。漣《さざなみ》のような幸福感が、ヒタヒタと圓朝の胸を濡らしてきてはまた濡らした。

 そうしたある朝。
「タ、大変だ大変だ師匠、お前《ま》はん」
 例によって素頓狂な顔をして萬朝がアタフタ表から飛び込んできた。
「何だお前はんとは」
 昔、師匠が夫婦して夢中で読んでいた「梅暦」をようやく手に入れて貪るように読み耽っていた圓朝はめっきり大人びて憂いを帯びてきた目を上げて、たしなめた。
「お前《ま》はんでいいよ師匠、お前はんの方が花魁《おいらん》らしくて」
 大真面目な顔をして萬朝がいった。
「お前のような汚い花魁がありますかえ」
 呆れて圓朝は笑いだしてしまったが、
「して何だえ、その大変とは」
「小勇の奴がねえ、師匠、お前はん」
「また始めやがった」
「口癖になってんだ、咎《とが》めねえでおくんなさいよ、いちいち」
「よしよしフムそれで」
「それで、ア、その小勇だ、あのほれこの間師匠がここの家へ引越してきて間もなく小言をいったらフイといなくなっちまったろう、あン畜生、小勇」
「うん」
 圓朝は肯いた。それは萬朝のいう通りだった。目に見えて陰日向《かげひなた》がひどくなったから越してきた日に初めてミッチリと油を絞ってやったら、不貞腐れてすぐその晩のうち、小勇は飛びだしていってしまったのだった。でもその小勇がどうしたというのだろう。
「ト、とんでもねえ野郎だ、いっちまったらしいんだあの野郎」
「だからどこへさ」
 また訊ねた。
「あすこ」
 無恰好な指を差して萬朝は、
「あすこだよホラ」
「あすこじゃ分らない」
「分るよ師匠、ホレ、ホラ、あの……おもいだしてくんねえよ」
「呆れたお人だ」
 いよいよ呆れてしまって、
「分るものかね私にそんなこと、どこだよ一体」
「りゅう、りゅう、りゅうしさん――」
 やっと思いだしたように萬朝、いった。
「エ、りゅうしさん、りゅうしさんてえと」
 圓朝は腑に落ちない顔をした。
「ホ、ホレ柳枝。春風亭柳枝師匠だよ。うそにもあの野郎、三遊の飯を食ってやがって敵方の柳派のおん大将ンとこへ入っちまいやがるなんて、太え、太え
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