ほど増しているのだろう、腐れかかった溝《どぶ》板を踏むたび、ザブザブ青水泥《あおみどろ》が溢れてきて、溝板の割れ目から豆粒ほどの青蛙がピョコピョコ飛び出してきた。
「阿母《おっか》さん、只今」
やっと破らずに戻ってきた番傘の雫を切って圓朝は、半分だけ閉めてある我が家の戸へ手を掛けた。
「お困りだったろう、次郎吉」
このごろすぐ眉間へ深い立皺の寄る、年よりはぐっと老《ふ》けた母親のおすみがオロオロしたような顔を見せて、土間まで迎えてきた。
その足許に、見馴れない男物の足駄がひとつ。
「オヤ阿母さんどなたかお客様」
いつにないことと圓朝は尋ねた。
「待っておいでなのだよ。お前がでてゆくとすぐおいでになって……」
そっと後を振り返って母親は、
「お前、ねえお前、あのお前の高座をお聴きになってね、お弟子にしてくれってお方なんだよ」
「エ」
思わずドキッと圓朝は奥をみつめた。
三
一年目。まる[#「まる」に傍点]一年目。
いまお詣りをすましてかえれば、自分のような若輩の高座を聴いて、弟子になりたいというものがきて待っていようとは……。
これぞこの上なき、初代様の御加護と吉兆をおぼえて、満面を喜悦の微笑にほころばしながら圓朝は、母親の持ってきてくれた雑巾で足を拭き、ぐしょ濡れの着物もそのまま薄暗い座敷へ上がっていった。
「うわ、こりゃ――」
吃驚したような声を立てて二十二、三になる円顔の男が、ペタッと蟇蛙《ひきがえる》のように両手を仕えた。誰かに似ているなとおもったが、ちょっとおもいだせなかった。
「圓朝です、私が」
得意のような面羞《おもはゆ》いようなものを感じながら圓朝は、丁寧に頭を下げた。
「ア、師匠ですか。すみません、ごめんなさい、悪うござんした」
いたずらをみつけられた子供がするように、ピョコンとひとつ頭を下げた。何ちっともこの人の悪いことなんかありゃしないのに、へんな奴が入ってきた、ふきだしたくなるのを圓朝は耐えていた。
「菊てんです、大工なんで私《あっし》ァ。しとくんなさいなお弟子に。その代り何でもやります手摺をこさえるんでも棚吊るんでも本箱こしれえるんでも。重宝です私ァ」
ニュッととぼけた顔を突き出して自分の鼻に指をさしながら、
「でも大工よかほんとは私ァ落語家のほうが好きなんで。じつァ大工は拙いんです」
な、何だい、
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