ささかもそんなお心持と知らねえで逆怨みしていたこの俺がみっともない。
 ごめん――ごめんなさいね師匠。
 涙ぐましく口の中でこういいながら、そうなってくると俺の首根っ子を掴んで高座から引き摺り下ろし、さんざ悪口のありったけをいったあの宮志多亭の雷隠居も、俺にとっては大きに大恩人の一人かもしれない。
 ……あの空っ風の晩の「桂文楽」と筆太にしたためた宮志多亭の招き行燈が、目にアリアリと蘇ってきた。「桂文楽」と書かれた文字はそのまま小意気な文楽師匠の顔に変って、
「そうだ、そうだとも、その通りなんだよ、よくお前さん」
 悟ったねえ――と、心から微笑んでくれているように感じられた。
 いつか師匠の家の庭を掃きながら落語家を廃めることを思い直したあのとき以上に自分の前後左右がパーッと何だか明るくなって、そこら道ばたに転がっている石ころのひとつひとつさえが、ありがたくてありがたくてならないもののよう考えられてきた。往来のまん中へペタッと坐って、誰にともなく、いや道行く人のありったけに、
「ありがとう、ありがとうございます」
 と心から大声で御礼がいいたいくらいだった。
「危ねえ若僧、殺されちまうぞ」
 だしぬけにこう怒鳴られて、ハッと小圓太は飛び上がった。すれすれのところに大八車がひとつ。もう少しでもろ[#「もろ」に傍点]にぶつかってしまうところだった。
「す、すみません」
 ピョコピョコお辞儀をして辺りを見廻すと、甘酸っぱいようなものの立ちこめている晩春の暮れ方。飛び交う蝙蝠《こうもり》の翼を掠めて、ほんのり行く手に五日月がかかっていたが、それにしても一体ここは……。
「ア、いけない」
 三河町の千代鶴は、もう十町も手前のほうへと通り越してしまっていた。しきりに竹刀《やっとう》の声が聞こえ、もうじき於玉ヶ池の千葉先生の道場ちかくへすらきていたのだった。
 吃驚して小圓太は引き返しだした。
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第三話 続 芸憂芸喜
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     一



 目に見えて小圓太の「芸」は大人になってきた。ぐんぐんぐんぐん身丈が伸びて成長してきた。
 それにしても、何てここまでやってくる間には曾我の十番斬の講釈じゃないけれど、大小無数のいろいろの「芸」の木戸があったこッたろう。とても俺、阿父さんの席へでていた
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