ですよ師匠」
どうしても答の意味が分らなかった小圓太だった。
「だからもうこれでお前の稽古はすんだ、すんでしまったとこういうんだよ」
再びキッパリといい放った。
「す、すんだ? あの、お稽古が」
小圓太は自分の耳を疑った。思わず澄んだ目をクリクリさせた。
「だってお前ようく考えてみな」
ニンマリと師匠は笑って、
「お前、今朝早く暗いうちから歩いてきて眠かったろう」
「ヘイ」
言下に、肯いた。
「寒かったろう、まだ表は」
「ヘイ」
また肯いた。
「そして随分辛いともおもったろう」
「ヘイ」
三たび肯いた。
「その揚句にいま俺に突き飛ばされて池へ落っこちて、随分アッとおどろいたろう」
「……」
今度は黙って肯いた。
「それ眠い、寒い、辛い、それからアッと驚いたときと、つまりそういうときの呼吸の修業をいまのこらずお前は俺にやって貰ったんだ。こののち噺の中へでてくる人物が眠がるとき、寒がるとき、辛がるとき、アッと驚くとき、みんないまのこの呼吸を忘れないでやるんだぞ」
もういっぺんまたニンマリと笑って、
「分ったか、おい小圓太」
さらに烈しく、
「なあ分ったか、オイ分ってくれ」
「分り、分りました」
ああなるほど、そうだったのか、師匠のこのけさの心持は――。寒さも忘れて濡れ鼠のまま小圓太はお辞儀をした、またポタリポタリ雫が群がるきんぽうげの中へと落ちた。
「ウム」
満足そうに肯いて師匠は、
「分ったらいい。早くおしのに着物を乾かして貰って帰れ」
飲み残しのおしきせ[#「おしきせ」に傍点]でもまた傾けるのだろう、そのままスタスタ踵を返して母屋のほうへ取って返していってしまった。
中一日おいて呼び付けられたときには、縁側へ坐って師匠は集まってくる雀にしきりに米粒をばら[#「ばら」に傍点]撒いてやっていた。
一羽の雀が食べ飽きて近くの木の枝へ、また別の一羽がまた食べ飽きてさらに一段と高い木の枝へ、もうひとつまた別の一羽はさらにさらに高い梢へ飛んで行くと、そのたんび師匠は、
「ホレ……ホレ……ホーレ」
とそのたんびその雀の行くほうへ行くほうへとことさらに目で追って見せた。そうして、
「もうこれできょうのお稽古はすんだよ」
とまたニヤリ笑った。
地面からやや高いところへ、やや高いところからさらに高いところへ、さらに高いところから一番高いところまで、
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