初代桂春団治研究
正岡容
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)哄笑《わら》ひ
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)サツカリンを[#「サツカリンを」は底本では「サッカリンを」]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)さん/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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御一新以後エスペラントと堕した江戸弁は東京の落語の面白さを半減せしめたが、上方には独自の陰影を有つ市井語が現代近くまで遺つてゐたから、此を自由に使駆し得た上方落語は、大へんに幸福であつた。さう云ふ意味のことを私は「上方落語・上方芝居噺」の研究に於て述べたが、その陰影満ち溢るる大阪弁へ、酸を、胡椒を、醤油を、味の素を、砂糖を、蜜を、味醂を、葛粉を、時としてサツカリンを[#「サツカリンを」は底本では「サッカリンを」]、クミチンキを、大胆奔放に投込んで、気随気儘の大阪弁の卓袱料理を創造した畸才縦横の料理人こそ、初代桂春団治であると云へよう。
人間が擽られて笑ふところを、第一に脇の下であるとする、第二に足の裏であるとする、第三におへその周りであるとする。それを春団治こそは寝食を忘れ、粉骨砕心し、粒々辛苦の結果、たとへば額とか、膝ツ小僧とか、肩のどの線とか、親指と人さし指の間とか、全くおもひもおよばざるところに哄笑爆笑の爆発点を発見し、遮二無二、その一点を掘り下げていつた大天才であつたとおもふ。所詮は、あくどい笑ひに対してよく云はれる「くすぐり」と云ふやうな卑小な世界のものではなかつた。ここに笑ひの大木あつて、さん/\とそれへ笑ひの日がふりそゝぎ、枝からも、葉からも、蕾からも、花からも、実からも、幹からも、根元からも、笑ひの交響楽が流れ、迸り、交錯し合つて、さらにドーツと哄笑《わら》ひ合ふすさまじさであつたと云へよう。私は、生れてから(恐らく死ぬまで)この人以上に笑はせられた歴史を持つまい。余りに郷土的な、それ故にこそ興味津々たる大阪弁の使駆であつたゝめ、東は名古屋まで、西は岡山まで、それ以上の遠方では、もはや春団治の可笑しさは理解されず、ために東京へも殆んどやつて来なかつたが、もし今少し東京人に分つてもらへる「波」であつたら、恐らく全日本的の素晴らしい「笑ひ」の存在となつてゐたらう。名声を唱はれだして以来廿年、それ晩年の二、三年を除いて、最大最高の人気の王座を守り通したと云ふことも、稀有なことであつたと云ひ得る。
先づ春団治は「音」の描写に、凡そ嶄新なポンチ絵風の手法を用ゐた。ちよつと東西、他に例がない。いや、考へ付いた人位はあつたかもしれないが、春団治のやうなあのドギツイ太い声による表現以外、到底、悪くすぐりに堕するのみであることをおもひ、やめてしまつたらうとおもふ。
泥棒が兇器で板戸を破る、その音の表現に、ベリバリ、ボリ。(「書割盗人」東京の「夏泥」)
拍子木を鳴らす音は、カラカツチカツチ。(「二番煎じ」)
往来に掛け廻してある竹簾のやうなものを開ける音に、カラカツチヤカツチヤカツチヤ(「へつつい盗人」)
その竹簾がぶツ倒れ、よろけて傍らの三輪車の喇叭を押さへる音を一ぺんに表現して、ドンカラカツチカツチ、プープ(「へつつい盗人」)
何か云はれて愕くときの「エツ」と聞き直すところを「エ」と小さく軽くやり、その「エ」につづけて深く太く腹の底まで抉るやうに「エーツ」。此は、どの噺にも与太郎や喜い公が訊き返すギヤグによく用ゐた。花柳界あたりでも、真似て日常語に使用されてゐた。この義太夫の地にありさうなねつい太い声は全く春団治特有のもので、谷崎潤一郎氏も「私の見た大阪及び大阪人」の中で、『悪く底力のある、濁つた、破れた、太い、粘り強い、映画説明者や浪花節語りのそれを想はせる声』と曾我廼家五郎の「声」を評した後で『落語の春団治などもあの地響きある声を出す』と云つてゐられる。さう、春団治の「エ、エー」は五郎の声帯で表現して想像してもらつたら、ほゞ原形にちかいものが、髣髴とさせられよう。
言葉に於ても、呆れる許りの放胆さ嶄新さがあつたと云へる。
「ゐても立つてもゐられんたかて、こないしてるより仕様ない」(「猫の災難」)
こんな大きな猫がでたと両手を一ぱいに拡げて見せるので「そんな大きな猫があるか」と相手が叱ると、「この手、うしろへ廻して小さうしてるがな」(「猫の災難」)
自分が喧嘩に負けて頭から踏まへられ、積上げてある下水の泥の中へ、ニユニユニユニユツ(こんな表現を、彼はした!)と顔を突込まれ、やつとのことで顔を上げたら、自分の面形がのこつてゐたと云ひ、そのあとで曰く「いつて見なはれおツさん、あの泥のとこへ。あの顔よう私《わい》に似たるわ」(「喧嘩の仲裁」)
いきなり相手の顔を見るなり、「あの、おやつさん、たのみがあるのですがおやつさん、ほんまにたのみますわ、おやつさん、なあおやつさん」と云ふ男を、なぜ、おやつさん/\とぬかすのかと叱り、代つてもう一人の連れに話をさすと「いえ、なあ、おやつさん、ほんまにおやつさん、この男のやうにおやつさんつかまえておやつさん/\ぬかしたら、そら、おやつさんかて困るやろとおもふのやが、おやつさん」「お前の方が、おやつさん多いやないか」「アハツ、ほんにおやつさん」「未だぬかしてけつかる」(「ふたなり」)
一読、どうしてこんなバカ/\しいことを、大真面目に考へてゐるやつがあるかと云ふことを考へて、更めて噴飯さずにはゐられないだらう。
その「ふたなり」では、狸に手の指を咬まれたとおもひ、片手を出して勘定する、ところが親指を一、人さし指を二、中指を三、薬指を四、小指を五とかぞへるまではいいが、その小指を再びかぞへることを忘れ、薬指を六、中指を七、人さし指を八、親指を九とかぞへて「ア一本やられた」と青くなる、さらに親指と人さし指の間を拡げて見て、ここがこんなに広いからここを一本やられたのやとガツカリする、こんなバカ/\しいギヤグも彼以外の誰が考へやう。現に、地味な芸風を以て知らるる桂米団治の「ふたなり」には、こんな表現は決してない。その指をかぞへるに「一イ二ウ三イ」とやらず「一《ひ》に二《ふ》に三《み》に四《よ》に」とゆくのも、へんに可笑しかつた[#「可笑しかつた」は底本では「可笑しかった」]。
A、B二人の男が、兄貴株のやうな男のところへ行く。先づBが口上を切るが、しどろもどろでどうにも分らない。代つてAがやることになり「退《ど》けそこを」と一喝して、「何やお前の喋りやうは」とさん/″\小言を云つたのち、「エー、さて」と口を切る。すると、こいつの口上が余計わからない。へんにモゴ/\、フワ/\、モヤ/\として、まことに神韻縹渺としてゐる。春団治、最も得意とするところで、此又、他に見られない手法であつた。
このモゴ/\、フワ/\、モヤ/\が、最前も云つた春団治独自の言葉の魔術で、これあつて「らくだ」の紙屑屋は世にも他愛なくあのばくち打にきめ付けられて、ツ、ツ、ツツーと滑り出すやうに二度も三度使ひにやられた。(その、何とも、気の毒な位の可笑しさ!)
「いかけや」と云ふ町内の悪たれ子供が大ぜいいかけやを取巻いて弄りものにする噺では、中の一人の子供が釜の中から青い火がでるところを見ると幽霊がでるかといかけやをくさらすのに対し、別の子供が「小父《おぢ》さん、釜から幽霊(ゆうれん[#「ゆうれん」に傍点]と発音した!)のでるわけないな、釜からでるのやつたら五右衛門(ごよもん[#「ごよもん」に傍点]と発音した!)の幽霊やな」と助け舟を出すので救はれたいかけや、「大分、お前、話、分るな」とおだてると、「さうか、そない、分るか。おつさん、私《わい》、弁護士になろかしらん」
ここらも耐らない可笑しさだつた。
「素人鰻」ではうなぎやの主人が鰻を持つたまゝ電車へ乗つてしまつたし、「返り討」では洋服を着た泥棒が崇禅寺馬場で大時代な三度飛脚に対面し、「ちしや医者」ではシルクハツトを着つた奴が籠へのつかり、頭がつかへるとて大騒ぎをはじめる。
まことに奇想天外であり、ポンチ絵に見られるナンセンスの極致である。がそれにはあの愛嬌のある狐のやうな顔をした、さうしていつも大家らしくなく凡そソソクサとでてくる姿の彼、いつも飛んでもない極彩色の高座着を着てゐた、背中一ぱいの定紋のがあつた、印絆纏のやう朱で両襟へ春団治としたゝめた羽織があつた、ハツピイコートみたやうなのがあつた、金の腕輪を光らせてゐた、故文三は赤俥を乗廻した由であるがこの人のは明治初年の人力車のごとく、俥の背へ赤く大きく菊水が彫られてあつた、つまり、さうした意表にいでた服装やら、装身具やらの一切が、ことごとく花やかで荒唐無稽な彼の落語とよく嫌味なくマツチしてゐた。あのナンセンスは春団治の生活全体であつたから、それで反感を抱かせなかつたものと信ずる。(同じ異装をした人でも、故桂ざこば、桂助六のあの嫌味さをおもふとき、此は容易に解決されよう)
次に、云ひ度いのは、春団治、近世芝居噺の名手桂文我の門人で我都と云ひ、のち先々代文団治(七代目文治)門下へ転じたのであるが、前座から二つ目までのこの人は、凡そ本格そのものの「芸」であつた、それが凡そ極端に崩れたのだと云ふことである。その片鱗は、常に見られた。否、その片鱗あつて、この人のナンセンスは、あれほど光つたのであると云ひ度い。しかも、容易に世人はそれを見落してゐた。「ふたなり」のさびしい森で、娘に首縊る手だてを教へるときには、木の間洩る月の光りに、はるかの枝へしごきを投げる老爺の姿をありありと見せた、「くしやみ講釈」の講釈師が読み立てる『難波戦記』の修羅場はすべて、硝煙鼻を衝く新戦場の活写であつた、「青菜」で大工が一杯御馳走になり乍ら、我家の窮状を訴へるとき、陰惨な生活苦の地獄図を息苦しいまでに漂はせた(大ていの落語家が落までやつて卅分とないこの噺を彼は前半で四十分かゝる)、さらに/\「反対車」の早い方の俥が「ゆき[#「ゆき」に傍点]とちがふてかへりは目がくらんでますさかい。只、何事もおもはんと一心にお念仏を唱へられよ」かう叫ぶとき私は聴いてゐて死刑の宣告でも与へられた心地がした、「もう駄目だ」と心におもつた。小杉未醒氏の随筆に、故梅坊主の深川を踊るとき、上る衣紋阪アレワイサノサと指したら、五十間のなぞへ[#「なぞへ」に傍点]が見えてその料亭の畳、忽ちにメリ/\とめり込むがごときものをおぼえたとあるが、春団治の場合も正にこれであつた。
かうした点は、彼は、今の大島伯鶴の巧さに似てゐる、伯鶴は「三馬術」でトラツクがでて来たり、「一心太助」でシユウマイを出したりするもので、インチキのごとくおもはれてゐるが、「筑紫市兵衛」の雀の宮の武者一騎走り去る背ろ姿には濛々たる土埃の舞上るが見えるし、同じく山上の花見は場面で颯と吹来る一陣の怪風を主人公が袖で除けるあたりの迫真さ、「面打源五郎」の母が釣瓶の水を浴びる手付きも単なる桶ではなく、立派に釣瓶桶を活写してゐる。まことに春団治は伯鶴の至芸に比していい。加ふるに、伯鶴の方は講談としての大家であるから最早あのトラツクやシユウマイは廃してもらひ度いが、春団治の方はあの荒唐無稽さと本格さと、両々相俟つてその艶を、光りを強めてゐたものとおもふ。しかも今日、伯鶴の中にチラと漂ふ本格さに言及する人もなく、春団治が示してゐた本格の面の素晴らしさを、論ふ人もない。「上方ばなし」と云ふ笑福亭松鶴が五十号近く発行した研究雑誌など見ても、上方落語通の殆んどから邪道扱ひをされてゐる。それもいいとして、その対象に小勝あたりを本格の名人として挙げてゐるのを見ると笑止でならない。(小勝などはいつの間にかあんなえらい人になつてしまつたが、描写も何もできず、脂つこく、他愛なく馬鹿々々しかつたところにこそ、むしろ好感のもてる[#「好感のもてる」に傍点]ものがあつた。結局は小説でなく、雑文だつたのだ)
ところで小勝の名人視されたことは全くの世の中の色
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