盲からであるが、世の中と云ふものは渋い色彩の表現を持つものなら容易に名人たることを分つてやり、派手な色彩の表現をする人には、人気者以上の讃称を与へないよくない傾向があり度がる。世に、鳶いろ朽葉いろ檳欖いろの名人あるなら、紅いろ緋いろ橙いろの名人も亦あつてよからうではないか。春団治などは紅いろの表現であつたゝめ名人と認められなかつた犠牲者の随一であり、先代小さん(三代目)のごときは鳶いろ朽いろの芸風であつたゝめ容易に名人の花冠を与へられた幸福人とおもふ。流石に伊藤痴遊は「痴遊随筆それからそれ」の「講談と落語」の中では、先代小さんをば「落語としては慥に巧い方ではある」が、老若男女の描写はできず「三十前後の、少し調子の脱れた職人体」のものゝほか「使ひこなし得[#「なし得」に傍点]ぬ不器用な芸風」と評している。此は筆者も太だ同感で、小さんは多く上方落語に「芸」の呼吸を学んだと聞くが、まことにや、あの八さん熊さん体の男が「いえ……あの……まことに……その……エー何でやして」とモヅ/\するところと、「いえ……あの……ほれ……いえ……もし……その、ちがひまんので……あの、なあ、もし、旦那さん」と春団治落語中の頓狂人がヘドモドするのとは全く同一呼吸の産物である。然るに小さん、渋色の表現ゆゑに名人とされ、春団治、派手の表現ゆゑに邪道とされる。私は不満足たらざるを得ない。世の大方の、落語通の再考もあり度いところである。
 大阪落語の大半が背負つてゐた[#「背負つてゐた」は底本では「背負ってゐた」]尾籠と卑猥の宿命は、春団治も亦、背負つてゐた。「書割盗人」に於ては盗人に入られた家の主人公が盗人に対し、妾の家へでも飛び込み美しい寝顔など見たとき、ほんに泥棒はええ商売やとおもひなはるやろなあと煽情の言を弄するところがある。「刀屋丁稚」では小僧が刀の銘を医者のところへ訊ねて行き、サツクを風船玉とまちがへて膨らがしたり、「恵美須小判」では額へ小判が貼付いてしまつた男が病院へ診てもらひに行き、ベツドの上へ横になるとき、枕二つと水さしを持つて来てやと青楼へ泊つたやうなことを云ふ場面がある。尾籠のことも随分云つたが、枝雀のやうな老大家が尾籠を云ひ放しであつたに引代へ春団治はいつの場合も「そんた不潔いこと云ひないな」と相手に否定させてかゝつた。それがその不潔感を少くさせ、爆笑の方に代へさせていつた。卑猥の場合も多くは前記の「刀屋丁稚」とか「恵美須小判」とかのごとく、余りにも意表の場面で意表の人物が猥雑のことを云ふので明るい可笑しさが先立つて可成に不快感からは救はれた。
 世人一と口に、彼を目して初代春団治と云つてゐるが、初代ではない、二代目である。初代春団治は故春団治の兄弟子で、志々喰屋橋圭春亭席元となつた仁。今日、二代目を初代と云ふは、一に二代目の盛名が一代を圧したからに他ならない。ステテコの円遊もじつは二代目で初代は円朝門下の先々代新朝であり、猫八も先年死んだべらんめえの中風の人は二代目であつたが、みなその人気旺盛のため、誤つて初代と呼ばれた。大正元年、道修町の薬種屋の未亡人が春団治の贔屓となり、巨額を投じてこの人を引き立てた。後家ころしと呼ばれた春団治は、さうした艶情すらが人気を助けるに至つた幸福人であつた。やがて彼はこの未亡人と夫婦になり、死ぬまでを同棲した。いよ/\幸福人と云はねばなるまい。
 一代を花やかな人気で飾つた春団治も、僅に晩年の幾年かは不遇であつた。金語楼の擡頭に一籌を輸され(その金語楼は売出し以前、下阪するたび始終、筆者と春団治研究に歩いたものであつた)、愚劣な漫才の横行にもその人気を奪はれた。借金もいよ/\嵩んだ。そこで差押へになつたとき、朝日新聞社が撮影に行つたら、傍への物品に貼つてあつた差押への紙を一枚貼がし、ペロリと出した舌の上へ貼付けて写真を撮つた。その見舞にいつた門人の小春団治へは、何十年となく芸人は借金しろ/\と云つてゐた彼なのに流石にその朝許りはすつかりとガツカリしてゐて、その顔を見るなり、
「オイ、芸人は借金したらあかんぞ」
 と云ひ、
(今ごろ、もう、遅いわい)
 と腹の中で、小春団治をして噴飯させた。
 この二つの挿話はいづれも春団治の面目躍如たるものがある。このやうに彼は春団治落語中の爆笑人物と同一系歴の性格であり、日常であつた。重ねて云ふが、であるから、彼の荒唐無稽には真実籠るものがあつたと云へよう。
 今日、いろいろのレコードに彼の十八番物はのこつてゐるが、ニツトーレコード以外のものはみな面白くない。ニツトーは多年専属で馴染であつた故、吹込以前に社員と馬鹿話をして吹込むので味がでてゐる。他社のは他人行儀に吹込んだ故、脂が乗つてゐない。ここらも春団治のいいところではないかとおもふ。
 昭和九年秋、中村鴈次郎と相前後して彼は死んだ。この年、関西には颱風があり、天王寺の塔も倒壊した。
 春団治と鴈次郎と天王寺の塔と――大阪の三大名物、ここに氓びたと私はおもつた。
 私の昔の歌に左のやうなのがある。

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うなぎ、うなぎ、鰻つかみて春団治 歩む高座に山査子《さんざし》のちる
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底本:「日本の名随筆22 笑」作品社
   1984(昭和59)年8月25日第1刷発行
   1999(平成11)年9月30日第18刷発行
底本の親本:「寄席風俗」三杏書院
   1943(昭和18)年10月
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2008年12月12日作成
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