棒と思えというふうに、すっかり私は誰をみても信じなくなってしまったんです。よく戦争ばかり引き合いに出すようですがなにしろ今夜のこの場面だからだとおぼしめしてください。つまりその戦争にもそっくりこういう場合があるそうですね、いくら戦っても戦っても敵の大軍は増えるばかり、もうしかたがないここで斬死だと覚悟を決めて大暴れに暴れてしまったら、いつの間にやらチャンと敵を皆殺しにしていたなんて、私のひがんでやけのやん八を起こしたときもちょうどそれと同じ……あれあれ、また万歳だ、さっきよりよっぽど多いや、それになんだろう大勢の歌がまじって、ああ、※[#歌記号、1−3−28]道は六百八十里――ってあの歌だ、ご存じでしょう、ほら日清戦争のときもずいぶんこれを歌いましたねえ、この歌が聞こえてくると私は初めてああほんとうに戦争に勝ったんだなって心持ちがしてくるんですよ。おおおおおお、万歳万歳万歳万歳、またたいそうそろってきたね。あれ、それに楽隊もまじってますね、ドンガラドンガラって勇ましいや。ねえ、ねえ、あなた、この物干しから大屋根の火の見へ上がってちょいと見物しませんか。なあに空ッ風は吹いているけれど、その大きなやつでキューッと景気をつけていきゃ、風ぐらいへいちゃらですよ。お互いに日本人だ。せめてこっちも高いところから万歳万歳ってやつを、景気よくやってやろうじゃありませんか。
下
さすがにずいぶん、こたえますね。ウルッ、ひでえ寒さだ。でもああやって行列している連中はみんな人いきれでホクホクしてるにちがいありませんね。おかげでこっちはちっとばかりのお酒が醒めてしまった。ハッハッハ。
この醒めたところで引き続き、もうちょっとばかり残っている身の上話のほうを申し上げてしまいましょう。
さんざ世のなかを怨んで怨んで怨みぬいたあと、じゃなんだっていったい、私はこう売れないんだろう。そこンところを、よくよウく、胸へ手をあてて考えてみました。
そうしたらこの理屈はすぐにわかってきた。つまりそのいくら仲間にほめられても、とどのつまりはお客さまがよろこんでくださらないからだ。そもそも席亭というものはお客さま次第、お客さまさえよろこんでくだされば南瓜《かぼちゃ》が唐茄子《とうなす》が南京だろうとすぐにオイソレと門を開いて入れてくれるものだ。こう答案がでてきたのです。では、いったいどうしたらお客さまによろこんでもらえるだろう俺は。というよりもいったい全体どこがお客さまにすこしもよろこんでいただけない、いけないところだろう。
ものは考えてみるものですね。考えて考えて考えぬいてみるものですね。天は自ら助くるものを助く。どうしたらよろこんでもらえるかと考える先に、どこがよろこんでもらえないのか、そう気がついたところに、蓮の花がひらくよう、パチンと音立てて私の心の花はひらいてきました。
陰気だったんだ、私の芸は。もともと、口調がムズムズと重いそのうえに、暮らし向きのいけないこともそれへ輪をかけて私の高座を暗いジメジメしたものにし、ずいぶん理に積んでいて陰気至極だったんだ。
それだけに脇の下をくすぐって無理にお客さまを笑わすようなケレンは露いささかかももちあわせていなかったから、師匠燕枝はじめ、死んだ燕路さん、年枝さん、鶴枝さんたちはみんながみんな、それケレンのない、一応、本筋だというところを、わずかにほめていてくれたんだろうが、じつにそれ以外のなにものでもまたなかったわけだったんだ。
しかし、しかし、いくら本筋であるとしても、お客さまは、ことにこうしたこの頃の戦争の最中のお客さまは、一日の疲れを笑いで洗い落として明日は二倍お国のために働きたく、いわばその元気の元を仕入れに寄席へおいでなさるのだから、そのお客さまたちに私のような石橋を叩いて渡るようなただコチコチの、盲縞《めくらじま》みたような陰気な芸はおよそ御迷惑だったろう。
とすると仲間のほめるのもうそでなければ、だのにお客さまのよろこんでくださらない、したがって人気の立たないということもまた、あまりにもほんとうの話だろう。ああ、かくては誰を怨むせき[#「せき」に傍点]があるだろうか。
初めてこう悟ると、とたんにまたひとつ私は芋づる式に悟りましたね、そうだいままでの私は臭《くさ》い芸はいけない、ケレンは慎もう、ひたすら、そればかり考えすぎたあげくが、本筋の芸はただ几帳面な味も素《そ》ッ気《け》もないパサパサのものでいいのだと思い込んでしまっていた。いけない。それではいけない。悪くすぐりでなく、品好く、本筋であるうえに、もうひとつふるいつきたいほどその味が美味《おい》しいのでなければ……。では、どうしたらその味が出るか、本筋なうえに面白おかしい味が出て、皆さんによろこんでいただくことができるか。
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