ものになってきた、このくらいの落語家が昔あると、ぶっつけ[#「ぶっつけ」に傍点]真打だがと言っていた、ほんとに珍しいこッたから、しっかり勉強をおしよと励ましてくれました(もっともこの年枝ともう一人、鶴枝というこれも没《なくな》りました二人は、私が京橋で乞食の爺さんに逃げられた時分、ホトホト自分の境涯に愛想を尽かしてしまい、もう落語家はやめようかと相談にいったときも、二人して苦しかろうがもうすこし辛抱をおしなさい、必ずお前さんは末の見込みがあるからと思い止まらせてくれたくらいの私のひいきだったのです。それゆえ、こちらも恩返しにそののち私が看板を上げてからは死ぬまでこの二人に前へ出ていてもらいましたが)。
やかましやの師匠燕枝がほめてくれたと聞き、それはまんざらうれしくないことはありませんでしたが、じつはほんとうのことを言うと、もうそのとき私はそんなことをすっかりアテにしなくなってしまっていました。十年一日――曇りの次は雨、雨の次は雪また嵐と年がら年中この繰り返しで、ほんとに日の目ひとつ見たことのない私は、なまじはじめの出が華やかだっただけに今ではすっかり心もちが怯《ひが》んで腐りきってしまっていたのです。
ほんとかなあ、そんな。信じられないなあ、なんだか。年枝さんは俺がひいきだからそんなことを言って俺をよろこばしてるんだ。
ただそうとのみ考えて、形だけのお辞儀だけはしながらも格別うれしそうな顔も見せず、それよりもひさしぶりの牛肉のほうがうれしくってムシャムシャ片っ端からたいらげていた始末でした。ただ、こんなにも腐りきってしまっているときでも、性質のそそっかし屋だけはやっはり直らず、牛とまちがえて生葱を三度もガリガリと齧《かじ》ってしまい、そのたんび年枝さんをふき出させましたよ。
でも。
この師匠燕枝のほめてくれたのは、決して年枝さんのうれしがらせではないということが間もなくわかりました。帰ってから八丁堀の朝田が柳桜師匠とうちの師匠の二枚看板で、このときに師匠は「仏国三人男」という新作の西洋人情噺を、三遊の圓朝さんの向こうを張ってこしらえていましたが、そのなかに「本膳」と同じ呼吸のところがある。で、横浜で聴いたお前の「本膳」がよほどよかったから今夜はひとつ聴かせてくれとこう言われ、ではまんざら年枝さんのお世辞でもなかったのだなと初めてわかったことだったんです。言われるままに私はその晩「本膳」を演って下りてくると、今夜は俺が聴いているせいか、横浜のときよりよほどうまかったぜと笑いながら師匠に肩を叩かれましたが、さてそのあとで楽屋の奥の誰も人の来ないところへ連れていかれると、ピタリと師匠はそこへ座って、お前は私とはまことに縁が薄く、弟子になるとすぐお前は燕路や柳枝の手塩にかけられ、そのあと今度は扇歌の手人《てびと》に借りられてしまったりして、ほとんど高座を聴くこともなかったが、サ、今日こそはいろいろ噺のコツを教えてやろう、いいか生酔の急所はこうなんだ、また百姓はこういう目をしなければいけない、破落戸《ごろつき》はこういう手つき、職人はここへこう手を置くものだ、それから侍は肩をいからして手をこう置くし、大名のときはこうやるんだとすべていちいち手帖へ控えておきたいくらいに士農工商それぞれの言語動作を隅から隅まで、わずかの時間にすっかりと教えてくれました。みなウームウームと唸ってしまうくらい、肯綮《こうけい》にあたっていることばかりでした。なんだか自分の粗悪な「芸」の着物を、いっぺんに極上等の染粉をつかって見ちがえるように洗いあげられたようなすがすがしさを感じました。すっかり身が、心が、ぽってりと肥えて太ってきたかんじでした。
だのに、だのに。
やっぱり、売れない。売れないんです、からっきし[#「からっきし」に傍点]。ばかりか三軒あった掛け持ちは二軒に、二軒のところはまた一軒にとだんだんあとびっしゃりをしていくのはひどすぎる。
こうなるともう私は、怨とか、腐るとかいうことでなく、真剣に、肚の底から腹を立ててしまいましたね。
冗、冗談じゃない、てんだ。
つもってもみてくれ。
うそにもよっぽどどこかに見どこがあると思えばこそ師匠燕枝も、親しく小対《こむか》いになって「芸」の急所や奥許しを、惜し気もなく私にさらけだしてみせてしまってくれたのだろう。
だのに、それがやっぱり売れないときては、わかった、みんなして寄ってたかって俺をバカにしているんだ。
いい加減なでたらめばかり言っておだてちゃ、陰で赤い舌を出してよろこんでいやがるんだ。
人をも世をも怨みわびとでもいいましょうか、果てはほんとに世のなかが、まわりの人たちが、ただわけもなくうらめしくてうらめしくてならなくなった。みんな仇《かたき》だ、みんな敵なんだ、人を見たら泥
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