となった。元のお神さんだった関係から頭取の柳枝さんへ話し、柳枝さんからまた師匠へ話して、無理に私を歌太郎と改名させ、この扇歌の前へつかわれるようなことになってしまったからです。
 ところが、この扇歌が評判がよくない。
 したがっていよいよ私は売れない。今までだっていい加減、貧乏のところへもってきてそれがいっそう烈《はげ》しくなり、とうとうお粥もすすれないようになってきました。
 でもなんとかしていい落語家になりたいと、その頃、京橋の金沢の昼席を、三年間、柳枝さんが真打をつとめていましたが、私はここへ勉強のため、無給金でつとめました。どうして無給金かというと、もともと、お客が十五人か二十人しか来ない。したがっててんで[#「てんで」に傍点]楽屋入りもないところから、ここは落語家の無料で出演する修業場所としてあったのです。夏なんか洋傘《こうもりがさ》が買えなくって頬かむりをしては楽屋入りしたものですっかり色が黒くなって、お前、流行《はやり》の海水浴に行ったのかと冷やかされたこともよくありました。昼席がハネて寄席へまわるのにみんな楽屋で弁当をつかいますが、私はつかいたいにもその弁当がなく、「ちょいと、めしを食ってくる」と表へ出てワザと襟へ挟んでおいた古い楊枝を斜めにくわえて、ああ、どこそこのなにはちょいとやれるぜなどといい加減なことを言って、さもさも食べたような顔をして帰ってきたこともありました。ある日、逆さにふっても鼻血も出ない一文無しでこの金沢の楽屋を出て、京橋の上へかかってきたら忘れもしない爺さんの乞食《おこも》が、自分の前に七、八銭並べて、どうぞやどうぞやとお辞儀をしている。ああ、あるところにゃあるもんだなあとジーッと立ちどまって見つめていたら、急にその乞食が立ち上がってそのお銭《あし》を懐中《ふところ》へ、さも薄気味悪そうにスーッとどこかへ行ってしまったのは大笑いでした。もっともこの乞食の爺さんにはもうひとつ、後日物語があります。そののち私がすこうしはどうにかなってきてからやっぱり金沢へかかったとき、やっぱりこの爺さん京橋の上に座ってお辞儀をしているのでわが身に引き比べてなんともかわいそうになり、一銭取り出してやろうとしましたら、ヒョイと私の顔を見てその爺さんが、「アアお前さんのはいりませんよ」とニコニコ手を振って断わられたには、いよいよどうも大笑いです。摩利支天《まりしてん》にも見放され……とは「関取千両幟《せきとりせんりょうのぼり》」ですが、乞食に見放されたのは芸界広しといえどもまず私でございましょう。でもそのときばかりはおかしいような情ないような、われながらへんてこ[#「へんてこ」に傍点]な心もちになりましたよ。
 そのうち、今度はその昼席へも出られなくなってしまった。というので夜分は襟垢のついたものでもわからないが、昼間はお客さまに失礼でそんな色の変わったものを着ては出られない。
 しかたがないので死んだ先代の柳條さんたち四、五人と苦しまぎれに足利へ興行に行ってみたのです。するとこれが初日に七人しかお客が来ない。どこにもこうにも、これじゃ二進《にっち》も三進《さっち》もゆきやしません。
 東京へ帰るにしても五人の頭へ四人分の路金《ろぎん》しかない。しかたがないのでたまたま足利の芝居へ昔なじみの常磐津の鎌太夫が来ていたのを幸い、皆には先へ帰ってもらい、私だけその座に七日つかってもらって、やっとほんの雀の涙ほどのお宝をいただいて後からみんなを追い駆けました。
 ところがまぬけなときはこうもまぬけなことになるもんですかねえ。途中あれはなんといったでしょうか、渡船《わたし》がある。私にこの船賃がないんです。といってまさかに泳いでも渡れない。すっかり途方に暮れてしまっていると天の助けかすぐ脇の一膳めし屋へ、額へ即効紙を貼った汚い婆さんがジャカジャカ三味線を弾いて、塩辛声で瞽女唄《ごぜうた》のようなものを歌って門付《かどづけ》をやっているんです。得たりとそこへ飛び込んでいって無理にその婆さんに都々逸《どどいつ》を弾いてもらって二つ三つ歌っていたら、入口のちかくでめしを食っていた東京者らしいお職人衆がホラヨといくらかのお銭《あし》を投げてくれました。そのときの天にも昇るようなうれしさ。すぐ婆さんと半分ずつ分けて、おかげでやっとその渡しを渡って、東京まで帰ってくることができました。
 それからすこし経って師匠燕枝の一座《しばい》で横浜へ行きましたが、このとき私が「本膳」を演ったら、その晩、年枝という兄弟子が私を万鉄という牛《うし》屋へ連れていってくれ、お前はたしかに出世をする、うちの師匠は誰の芸を聴いてもすこしあすこがどうだとかこうだとか決してほめたことがないのだが、それが今夜、お前の「本膳」を聴いて、しばらく聴かないうちにすっかり
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