、水さしを運んで来た女に発見されてしまつた。
万事休す! 最早、自分にあなたを恋する資格は全くないから潔くこの恋愛は棄権しますと号泣しながら正直に告白したことが却つて彼女の恋情を百倍させて、結婚。
九死に一生を得た情熱漢天民の、かくていかに新夫人を全魂全霊で、愛撫しつくしたことか。新婚旅行は江の島の岩本楼へ行つた由だが、そのとき天民は、枕許の丼へ生玉子を山積させ、食事と厠以外は三日三晩、彼女との床中をはなれることが全然なかつた、と云ふ。
この情熱、この天真爛漫さ、いかにも私は好感が持ててならないのであるが、余り他のこと許りは云へない、さう云へば私にも青春の果てちかく、残花のやうな女とふたり、さみだれの日を町中のホテルに、丁どまる一日、籠《こも》りに籠つて、その夜、女におくられて西下した。翌朝車内に目醒めたときの、何とも云へない快く物倦く哀しい全身全霊の痺れと疼きとは!
もうそのひともなく、その町も現世にはない、宛かも私自身の青春の炎がいまは燃え尽きてしまつたやうに!
いや、こゝは、私のヰタセクスアリスを、叙《の》べさせて貰つてゐる可き舞台ではなかつた。
「吉原百人斬」鑑賞を、さらに/\つゞけんかな。
「な、な、何の用だえ」
やがて宝生栄之丞は、未だ寝足りないやう、美しい目を充血させて、やさしく訊ねた。
「ヘイ耳寄りなお話なんで」
ヂリリ一と膝、阿波太夫は乗出して来た。
またサーツと一と切《しき》り吹抜けて行く涼しい風。
三
「あの、じつは、佐野のお大尽が」
声を低めて阿波太夫は云ふ。
「化物か」
美しい栄之丞の顔へ微かに冷笑が漂ふ。
松皮疱瘡の次郎左衛門を、「化物」とかう栄之丞は蔑称したのだつた。廓全体の蔑称だつたかも知れない。
「ヘイ」
阿波太夫は頭を下げる。
「その化物が何としたのだ」
冠せて栄之承は、訊く。
「ヘイ、じつは、明日の単午《たんご》の節句を期しましてその前に、八つ橋花魁のための八つ橋楼と云ふお居間ができました、お大尽のお骨折で」
「ウム」
「明五日の晩には、ですから大尽がお見えになります」
「ウム、ウム、それで?」
「いえ、それですから、その、折角できたそのお座敷で、お大尽のおいでなさらない前に、あなたさまにおいでを頂いて、今夜一と晩ゆつくりお憩みを頂き度いとかう花魁が申しますんで」
「な何?」
はじめて濡れた目をかゞやかせて栄之丞が、
「ぢや何かえ、太夫、化物の入る前にその座敷へ、この俺に今夜一と晩、先へ入つてゆつくり愉しんで呉れと、あの八つ橋がさう云ふのか」
「ヘイ、そのとほりで」
「フーム」
やゝ感嘆、此を久しうしてゐた栄之丞だつたが、つゞいて伯龍手を懐中《ふところ》に、その手を胸のあたりからだして顎のあたりを撫廻すと、
「憎くねえ奴だなあ」
何とも云へないその色悪《いろあく》らしい、心憎いほどの巧さ。
が、間もなく私は、拙作小説「春色梅暦」を草するに際し、かの為永春水の原作を翻読して、唐琴屋丹次郎が許嫁お蝶の申出に対して、全く同様の手法の採られてゐることを発見し、おもはず微笑まずにはゐられなかつた。
なぜなら、彼、伯龍。
年少、師匠伯山と横浜公演に赴いた砌り、兄弟子《あにでし》にあたる「日蓮記」の巧かつた柴田南玉と古本屋を漁つてゐるうち、偶々「梅暦」を発見し、以来、一と方ならない為永の信者となつて、その作風に大いなる影響を与へられたと聞知つてゐたからだつた。
「オイ伯龍さん、あの『百人斬』で栄之丞が顎を撫でるところは丹次郎を応用したねえ」
変化《へんげ》の正体を見現《みあらわ》したと許り、晩年、放送局であつたとき私が云ふと、
「…………」
黙つて彼は、さも忌々しさうにニヤ/\した。
伯龍は師匠伯山には殆んど教はるところなく、近世世話物の名人と呼ばれた一立斎|文慶《ぶんけい》(荷風先生「築地草」参照)に、話術は元より、幕末風俗に付いて教はるところ少くなかつた。
たしか文慶は、お数寄屋坊主だつた上に、前述の「美の吉ころし」の美の吉とも御親類筋で、その位牌を常に飾つて拝んでゐたと云ふ位の幕末の直参にはあり勝ちの、所謂「相馬《さうま》の金さん」だつたから、伯龍のやうな廃頽期の江戸の世相人心を描破するものにとつては、どれ丈けその見聞談が薬となつたか分らなからう。
かくて、一立斎文慶の薫陶と、為永春水文学の影響とが、あの江戸後期浮世絵を見るがごとき「伯龍話術」を完成させたのだと云へる。
「ウム」
もう一ぺん肯《うなず》き直して、急にニコ/\しだした栄之丞は、
「太夫、よくしらせに来て呉れた」
心から嬉しさうに云つて、
「あのウ」
台所にゐる妹の方へむかふと、
「阿波太夫さんに、焼酎が冷えてるだらう、それから桃があつたな、差上げて呉れ」
「
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