ハイ」
 やがてよく冷えた焼酎と、いくつかに切つた青桃がそこへ運ばれ、遠慮なく阿波太夫は御馳走になる。
 冷し焼酎と青桃。
 此が又、いかにもそのころの「夏」の風物詩らしくていい。
 いまとちがつて、仲間《ちうげん》か折助でなけりや当時の人たちは、滅多に焼酎なんか飲まなかつた。たゞ、夏のうち丈け、暑気払ひと称して、愛飲した。
 恐らくや、栄之丞住居の裏には、はね[#「はね」に傍点]釣瓶のある掘抜き井戸があつて、けさからそこに冷やされてゐた焼酎だらう。
 そして、熟《う》れながらに青い/\桃の実。
 今日の水蜜桃でも、天津《てんしん》桃でもない、混りツ気のない、日本の青桃《あをもも》である。
 ……そのとき廓の屋根の並んで見える北空《きたぞら》は、およそ夏らしく桔梗いろに澄みに澄んで、遠く蝉の声さへ聞えてゐたらう。

     四

「その晩、八つ橋の許へ取つてかへした宝生栄之丞は、やがて次郎左衛門にその姿をみつけられるやうなことになります」
 やゝ早口ながら、ネツチリと、ナンドリと、含み声で伯龍は、それが癖の、上唇《うはくちびる》と下唇とをとき/″\ペロリなめ廻しながら、
「そのとき、次郎左衛門は、栄之丞の前に手を仕《つか》へて、男として一生の頼みには、どうか一ヶ月丈けこの八つ橋を、退《ひ》かせて自分の手許へ置かせて呉れ。
 さうしたら、必らずお前さまと添はせて上げよう。
 恥を包まず申上げるが、じつは自分が生れも付かぬ松皮疱瘡になつたため、幼いときからの許嫁《いひなづけ》は、急に縁談を、破談にして来た。
 その口惜しさは、心魂に徹して忘れられない。
 八つ橋花魁を、一と月でいいから、手許へ置度いと云ふのも、所詮はその許嫁を見返してやり度いばつかりだ。
 どうか、どうか、栄之丞どの、分つて下されと、心から次郎左衛門頼み入ります。
 そのため、一たんは承諾した宝生栄之丞でありましたが、あとでよく/\考へて見ると、やはり一ヶ月でも八つ橋を離しとも[#「とも」に傍点]ない。
 可愛い男の栄之丞が反対をするので、八つ橋もその気になつて、たうとう次郎左衛門の身請《みうけ》を断ります。
 男の面目をだいなし[#「だいなし」に傍点]にされた次郎左衛門、堪忍袋の緒が絶れて妖刀千手院村正、水も溜まらず斬つて棄てると云ふところから、なづけて籠釣瓶《かごつるべ》の鞘を払ひ、八つ橋、栄之丞をはじめ、数多の人を殺《あや》めます。『吉原百人斬』のうち、宝生栄之丞住居の一席、尊いお耳を汚《けが》しましたが、この辺で、終りを告げることにいたします」
       〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 伯龍の「吉原百人斬」は、八つ橋と栄之丞が歓語の章《くだ》りより、八つ橋は全然かげ[#「かげ」に傍点]にゐるこの住居のシーンの方が、余程艶麗である点がおもしろいとおもふ。
 近世、この「百人斬」を得意とした人に、講談では錦城斎典山、浪曲では春日亭清吉があつた。今日では、講談に馬秀改め小金井芦洲、桃川如燕があり、浪曲で桃中軒鶯童が数へられよう。
 人情噺では、御一新のころ、初代小さん(春風亭《しゆんぷうてい》をなのつてゐた)があつて、此を十八番としてゐた。
 この小さんは、美音で音曲にも長じてゐたが、ひどい大菊石《おほあばた》でその醜男《ぶおとこ》が恐る可き話術の妙、傾城《けいせい》八つ橋の、花に似た顔《かんばせ》の美しさを説くと、満座おもはず恍惚となる。
 さんざ悦惚とさせておいて、
「さてそれに引代へまして、相手の次郎左衛門はと申しますと、とんと私のやうな顔で」
 と、ヌーツと自分の菊石面《あばたづら》を突出し、今度はギヨツと寒がらせたと云ふ。
 水際立《みづぎはだ》つた演出ではないか。

 佐野次郎左衛門百人斬の顛末は、かの「洞房語園」には、ほんの数行、誌《しる》されてあるに過ぎない。
「次郎左衛門、捕手は犬の糞を踏み」と、川柳点ではかう屋上の捕物を詠んでゐる。
「籠釣瓶花街酔醒《かごつるべさとのえひざめ》」として、三世河竹新七が、初代市川左団次のため劇化したのは、明治廿一年五月の千歳《ちとせ》座(のちの明治座)でもちろん講談や人情噺の方が、その以前からあつた。

 つゝしんで、神田伯龍の冥福を祈り度い。

[#地から1字上げ](昭和廿六年早春・伊豆古奈温泉客舎にて稿)



底本:「日本の名随筆 別巻15 色街」作品社
   1992(平成4)年5月25日第1刷発行
   1997(平成9)年2月20日第4刷発行
底本の親本:「あまとりあ」
   1951(昭和26)年4月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2008年12月16日作成
青空文庫作成フ
前へ 次へ
全5ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
正岡 容 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング