たが、吉原第一流の遊君となつてゐる旧恋のひとにめぐりあつて、以来、俄にその生活は幸福となつた。
 尤も、いまの八つ橋には、野州佐野のお大尽次郎左衛門あつてのこの全盛なのだつたが、旦那の次郎左衛門は松皮疱瘡のひどい醜貌、かくて彼女の恋ごゝろは、いよ/\栄之丞ひとりに燃えて燃抜き、さればこそけふも阿波太夫のやうな、此又、廓内で五指を屈するに足る幇間のひとりが、殊更、花魁のつかひにこの侘住居までやつて来ると云ふ次第なのだつた。

「あゝ/\風とほしがよくて、いいお住居ですねえ」
 手拭で首筋の汗を吹き/\阿波太夫は、日の光りの映《さ》し込まない、冷え/″\とした畳へ坐つて、満更お世辞でもないらしく、辺りを見廻した。
 いくら享保の昔でも、人家稠密の廓から来たら、こゝら青田に囲まれた栄之丞の住居は、吹く風からしてちがふだらう。
「生返るやうですよ、あゝほんとに」
 誰にともなくまた彼は呟いた。

 たつた此丈《これだ》けを云つた丈けの伯龍だつたが、もうそれ丈で忽ちぐるり[#「ぐるり」に傍点]が青田や蓮田の、外はギラギラ烈日がかゞやいてゐるのに、狭い座敷ぢうには小指ほども日が映《さ》して来ない。たゞ只管に涼風颯々と吹抜けて行く許りのその座敷の景色が、目に見えて来た。その、暗く涼しい座敷の真只中に、昏々と前後不覚に寝入つてゐる栄之丞の、わかく青白く美しい平顔《ひらがほ》が、春信ゑがくお小姓のやうなしどけない寝姿が、また、マザ/\と目に見えて来た。
 許りか、格子先にはさや/\と風に戦《そよ》ぐ孟宗竹が五、六本、その根方には毒だみが青白く花咲いてさへゐやう。
 云ふまでもない中田圃とは、今日の台東区浅草|千束町《せんぞくまち》から吉原への田圃のことだから、古川柳の所謂「国者《くにもの》に屋根を教へる中田圃」で、その栄之丞の住居の彼方には、青田越しにいま阿波太夫があとにして来た吉原の、屋根々々へ天水桶を並べた異色ある遊女屋の高楼が、背景をなしてゐることだらう。「当時遊里の周囲は、浅草公園に向ふ南側千束町三丁目を除いて他の三方にはむかしのまゝの水田や竹藪や古池などが残つてゐたので、わたくしは二番目狂言の舞台で見馴れた書割《かきわり》、または『はや悲し吉原いでゝ麦ばたけ」とか、『吉原へ矢先そろへて案山子《かかし》かな』など云ふ江戸座の発句《ほつく》を、そのまゝの実景として眺めることができたのである」と永井荷風先生の「里の今昔」にも記されてゐる。

「もし/\、お疲れ筋を寔にすみませんが……」
 揺起しながら阿波太夫。
「私で、阿波太失で、花魁からのお言付けなんで」
 では、この阿波太夫の言葉に拠ると、彼、栄之丞は、前夜、恋びと八つ橋と随分見果てぬ夢を追つて、けさ方かへつて来て、それつきり正体もなく寝入つてゐたのか。
「…………」
 ウ、ウ、ウーと云ふやうな小さな呻き声がして、やがて濡れて美しい目を見開き、しづかに阿波太夫の方を見やつた宝生栄之丞先づ、そのとき第一番にどんな態度をして見せたか?

     二

「…………」
 黙つて、伯龍は、否、宝生栄之丞は、先づ両手で両手を、やがて両肩を、腰の辺りを、次々と揉んだ。
 美しい平顔を、しかめて揉んだ。
 やゝながいこと、揉みに揉んだ。
 あゝ、それがいか許り昨夜《よべ》の八つ橋との逢瀬《あふせ》を、睦言《むつごと》を、絢爛多彩な絵巻物として、無言のうちに悩ましく聴くものゝ心の中に想像させて呉れたらうことよ。
 凝つた朱塗りの行灯の灯《ほ》かげ淡《あは》く、勤めはなれて、目を閉ぢ、口吸はせてゐる艶麗の遊女八つ橋。
 髷の乱れが青白い横顔へ二た三筋ぢ、息喘ませて、しつかりキユーツと相手を抱寄せ、抱きしめてゐる美男栄之丞。
 重なり合つた二つの美しい顔と顔には、じつとり玉の汗がながれ、光つて、折柄、廊下を小走りに行く誰かの足音。
 はるかにシヤリリンと金棒曳き、犬の遠吠、有明ちかい兵庫屋の大屋根を斜めに、一と声、ほとゝぎすが啼いてとほつた。

 わが伯龍の、無言の動作《しぐさ》は、云はぬは云ふにいやまさる、かうした人情本の仇夢を、いと媚《なま》めかしく私たちに覗かせて呉れた。
 聴いてゐながら、さう云つても感慨深く私は、次々といろ/\さま/″\の遠く過去つた日のことを、おもひ起さないわけには行かなかつた。
 先づ、あの、死んだ松崎天民の恋のこと。
 豪放磊落のやうで、じつはおよそ涙脆かつた「倫落の女」の作者天民は、中年に至つて今日も名高い某温泉旅館縁辺のわかい未亡人を烈しく恋したが、彼女をめぐる求婚者には、当時第一流の日本画家があり、早稲田派の気鋭の作家があり、この中に挟まつて、刻々、彼の旗いろは悪くなつたその上に、天民の片眼は義眼で、いつも就眠前、取外しては枕許へ置いておくのが常だつたのを、一夜、偶々
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