吉原百人斬
正岡容

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)空板《からいた》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)精魂|含《こ》めて

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ぐるり[#「ぐるり」に傍点]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)たび/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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    序章

 随分久しい馴染だつた神田伯龍がポツクリ死んで、もう三年になる。たび/\脳溢血を患つてゐた彼だつたから、決してその死も自然でなかつたとは云へまいが、兎に角直つて平常に高座もつとめ、酒も煙草も慎んでゐた丈けに、やはりその死は唐突の感をおぼえないわけには行かなかつた。

 死ぬ前日、彼はある寄席の高座で、必らずいつもは、
「……云々と云ふ物語を、こんな一席の講談に纏めて見ました」
 かう云つて結ぶのに、その日に限つて、
「永々の御清聴を感謝いたします」
 と云つて下りて行つたさうだ。
「永々」とは、蓋し彼が前座で空板《からいた》を叩いてゐた昔々から、老後の今日に至るまでの、満天下の聴衆への、「永々」の感謝だつたと云へよう。考へると、哀れが深い。
 伯龍は、人も知る世話物読み。
「小猿七之助」だの、「美の吉ころし」だの、「鼠小僧」だの、「真景累ヶ淵」だの、「藪原検校」だの、「天保六花撰」だの、いろ/\読んだが、さりげなく人物や情景のみを浮彫《うきぼ》りにさせてゐるときには、文字どほり人情本の一頁をひもどいてゐるやうな艶冶な舞台が見事に展開された。
 だのに、彼自ら徒らに勢《きほ》つて、サー/\皆さんこんなエロテイツクシーンを味はつて下さいと許りなぞつて、しつこく呼びかけてゐるところは、却つて逆効果を奏していつもブチ毀しだつた。
 例へば「小猿七之助」の中で、同衾してゐたお滝と七之助の、先づ七之助が起出でて厠へ行き、用を達しながら小窓の外の雪景色に目を瞠り、
「オイお滝、見や、余りしづかだとおもつたら、雪だぜ」
 と呼びかける章りのごときである。
 此以上、そこへ何の手をも加へず演出したら宛然人情本中の好情景であるのに、惜しい哉、彼、伯龍は、いまゝで同衾してゐた男女のひとりが先づ起出でゝ厠へ行つたは、必らずやその直前に情交してゐたのでなければならないと云つた風な、愚劣な
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