悪謔を弄したことだつた。
 さうしたことは言外にそゞろ聯想せしめてこそ、高踏な艶笑物語とはなるものを、さりとは折角精魂|含《こ》めて再刻した国貞《くにさだ》や英泉の美しい複製版画を、自ら墨滴で汚してしまつてゐるものとじつに私は惜み度かつた。
 そこへ行くと同じ「七之助」でも、お滝との船中の馴れそめ、「美の吉ころし」の美の吉と熊次郎の媾曳《あいびき》、「人生劇場」(尾崎士郎作)の飛車角とその情人たるチヤブ屋女の歓会、それらの章りは、前述の悪謔がなくて活き/\たる描写にのみ終始してゐたから、極めて妖艶な哀艶な詩趣を漲らせ、芸術的なあぶな絵として、永遠の珍重に価した。
 同じく彼の佳きレパートリイの一つたる「吉原百人斬」の中の宝生《ほうしやう》栄之丞住居の一席も、艶冶な描写が、いまに私の耳を哀しく悩ましく擽《くすぐ》つて熄まない。
 マ紹介して見よう。

     一

 享保三年五月四日の午《ひる》下り、よく真青に雲なく晴れわたつた夏空で、云ふまでもなく陰暦だから、いまなら六月末の日の光りがギラ/\と眩しく暑い。
 そここゝに鯉幟りが、五色の吹流しが、威勢よくひるがへつてカラ/\音立て、廻つてゐる矢車よ。
「御免下さいまし、あの、御免……」
 浅草|中田圃《なかたんぼ》の、妹とふたり侘び住んでゐる浪人宝生栄之丞宅の格子戸の前へ、烈しい日の光りを浴びながら案内を乞ふてゐる、四十がらみの、スーツと背の高い、垢抜《あかぬ》けのした男は、吉原名題の幇間、阿波太夫《あはたいふ》でございます。
「アラお師匠《しよ》さん」
 声に、すぐでて迎へたのは、栄之丞の妹お光で――と、愛想好く伯龍の描きだす十六娘の、ニツコリ色白の顔が微笑む。
「あの、お兄《あに》イさんは」
「兄《あに》さんですか」
「ハイ」
「あのウ」
 再び妹が微笑んで、
「未だ寝てますんで」
「…………」
 御無理はござんせんやと云ひ度げに、意味あり気《げ》な笑を浮べて阿波太夫。
「花魁《おいらん》からのお言付《ことづ》けなんですが……ぢや……あの……手前が一つ」
「起して下さい、構ひません」
 三たび妹の顔が微笑んだ。また愛想好く。

 いま吉原は兵庫屋で、飛ぶ鳥落す全盛の花魁八ツ橋の幼馴染、筒井筒振分髪の恋人が、何を隠さうこの宝生栄之丞その人なのだつた。主家を浪人後は、習ひおぼえた謡曲で、細々と妹と暮らしてゐた彼だつ
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