いて歌いかつ踊った最後の一人だったろう。
突如、それこそほんとうに突如、座敷の中でも、寄り合いの最中でも一人がツケ板のようなものでやたらにそこらを引っ叩いて、
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※[#歌記号、1−3−28]モリヨリヨーン、モリヨリヨーン……
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とアジャラ声を張り上げ、そのあと何が何だか為体《えたい》のわからないことを歌い出すと、それに合わせて一方は目を剥き、烈しく手を振り、足を蹴り上げ、世にも奇妙奇天烈な恰好の乱舞をはじめる。もちろん、三味線も太鼓も入らない。狂馬楽はこれを師走の珍芸会の高座でくらいは演ったかもしれないが、まずまず平常は高座以外の、仲間との行住|坐臥《ざが》、もしくは冠婚葬祭の時にのみ、もっぱら力演これ[#「これ」に傍点]務めたのである。
思い起こす大正末年の歳晩、柳家金語楼、当時新進のホヤホヤで神戸某劇場の有名会へ初登場のみぎり、一夜、同行の先輩柳家三語楼、昇龍斎貞丈、尺八の加藤渓水の諸家と福原某旗亭において慶祝の小宴を催したが、興至るやじつにしばしば畳叩いて三語楼と巨躯《きょく》の貞丈は、※[#歌記号、1−3−28]モリヨリヨーン、モリヨリヨーン…… と諷い出し、そのたび金語楼、あたかも活惚《かっぽれ》坊主がスネークのひと手を学び得たるかのごとき奇々怪々の演舞を示して、渓水翁と私とを笑殺せしめた。元すててこもへらへらも郭巨《かっきょ》の釜掘《かまほ》りも大方が即興舞踊に端を発したるものとはいえ、それらのなんせんす舞踊には立派に曲もあり、振りもあり、よく一夕《いっせき》の観賞に値するのであるが、わがモリヨリヨンに至っては節もなければ、約束もない。その比喩のあまりにも突飛なるを許させられよ、もしそれ御一新に亡命せる江戸っ子の群れ、遠く南洋の島々へ落武者となって悠久の塒《ねぐら》を定め、彼地の土人が即興の舞踊を具《つぶ》さに写したらんか、すなわちこれと思わるるほど、哀しくおかしい。
それにしても神戸の旗亭でモリヨリヨン踊りを見せられてから、はや二十余年の歳月が経つ。だいたい、死ぬと思われなかった貞丈まず逝き、次いで三語楼、渓水と後を追って、モリヨリヨンの同志、いまやわずかに生き残りいるは柳家金語楼と私とのみになってしまった。しかもそののち年ならずして人気、一代を圧倒した金語楼はもはや昔日の落語家ならず身辺多彩の喜劇俳優として不朽の青春をもてあそびおり、二十年一日、旧東京招き行燈の灯影を恋おしみ、寄席文学の孤塁を守りいるものは、私ひとりとなってしまった。
だが、今にして私は思う、このモリヨリヨンというものを、モリヨリヨンの「本体」というものを。それは、その頃の落語家なるもの、一に話中の八さん熊さんと精神生活を等しうしてその狂態を活写すべく、まず常日頃よりおのれが身辺に妄動する小理性の閃きを皆無たらしめんとして、かかる愚かしきなんせんす舞踊の特技をば、ことさらに研き、身につけていたのではなかったか、と。あたかもそのかみの歌舞伎女形、「疝気《せんき》をも癪《しゃく》にしておく女形」の心得を四六時中忘れざりしがごとくに、である。しかりしこうして神崎武雄君、
「世の落語家のとにかく我々同様の愚かしきところを片相手に云々と紋切形のまくらを振るは、かくいいてまずその落語家自身の身辺にみなぎる常識、理性の色彩を抹殺せむ用意」
とかつて喝破せられしもまた、じつに同様の消息を語るものとぞ思わるる。
それ五風十雨《ごふうじゅうう》の太平の御世なりしかば、そのような愚かもまたなし得たのだと人、誰か、いう。太平逸楽の頃の落語家にしてなおかつ、この常在戦場の心構えあったのではないかとさえ、むしろ私は叫びたい。すなわち方今の落語家諸君は、近代の儀礼教養をことごとく習得しつつ、一方その近代教養の槍衾《やりぶすま》に高座の演技、常識地獄に堕せざるよう昔日の人々の二倍三倍のよき愚かしさを身につけるのでなければなるまい。文明開化の聖代は、ついに落語家の習練にも、精神上の二重生活をしいるに至ってきたのである。まことに難しとしなければなるまい。
教養過重にて、とにかく、底抜けの笑いを発散、開拓し得ぬ年少の落語家某君を連日にわたって戒めているうち、談、たまたま往年のモリヨリヨンが珍技に及び、私は感慨すこぶる量りなきものがあった。後日のしのぶ草また数え草、かくは書き留めておく所以《ゆえん》である。
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寄席朧夜
今から十二、三年前までは大阪の街の人たちは春がくると、美しい花見小袖を着、お酒やらお重詰やらをたくさんこしらえて堀江の裏の土佐の稲荷へお花見に出かけた。町も町も町のド真ん中のお花見だけれど、これがなかなか風流なもので昼は昼、夜は夜桜で、歌い、華やぎ、楽しんでいた。ばかりでない夏の七夕の時は町中が藪になるし、秋の地蔵盆にはどこの路地裏でも若い娘たちが三味線を弾いて踊っていた。つまりそうした古い懐かしい季節の風習を一つ一つ彼らは美しく慎み深く繰り返していったのだった。従ってその頃の大阪の落語家は、春がくると必ず春の行事を材とした落語を演り、マザマザとそうした市井の人情風俗を活写してくれた。松翁となった松鶴の「天王寺詣」にはやわらかに彼岸の日ざしが亀の池を濡らし、故枝太郎の「島原八景」は朧夜《おぼろよ》の百目蝋燭の灯影《ほかげ》に煌《きらめ》く大夫の簪《かんざし》のピラピラが浮き彫りにされ、故枝雀の「野崎詣」は枝さし交わす土手の桜に夏近い日の河内平野が薄青く見えた、ちょっと数えても春の落語がこれだけあった。その他「桜の宮」とか「鶴満寺」とか、「崇徳院」とか等、等、等――。
そうした上方落語華やかなりしある春の夜、昔の大阪らしい春らしい人情絵巻を満喫したさに今夜も私は、オットリ灯の色を映し出している法善寺の路地の溝板を踏んでもう今はなくなった紅梅亭という寄席へ出かけていった。
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逢いに来たやうに紅梅亭をのぞき
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という川柳があったけれど、ほんとうにそうした慎しやかな中に何ともいえない艶気を含んだ古風の表構えだった。
が――中入近くに入って行ったその寄席の高座ではフロックを着たノッポの男がカードの手品を見せていた。そのあとへは清元の喬之助婆さんが若い女の子を連れて上がってきた。かけもちの都合があるとみえて次の三木助は小噺一つであっさり踊って下りていった。いささか私はガッカリした。やっと顔を見せた染丸はなぜか季節に構わぬ「堀川」という噺をやった。
ひどい寝坊の男を、母親が朝起こすのに骨を折っていると猿廻しが浄瑠璃の「堀川」のサワリの替唄で起こしてやる。ここで下座の女に太棹の三味線を弾かせ、
※[#歌記号、1−3−28]お起きやるか、目痛《めいた》や目痛やなア、ウヤ源さんイヤ源さんイヤ日天《にってん》さんがお照らしじゃ、時間何時や知らんか(中略)イヤ腕力な、イヤさりとはノウヨホ[#「ノウヨホ」に傍点]あろうかいな、けんかなぞ止めようかいな(下略)
といったようなあんばい式にやるのだが、いったいに長屋のしじま[#「しじま」に傍点]こそ滲んでおれ、主人公そのものが没義道な不快な性格で少しも愉しくなれない。聴いていて、だんだん私は今夜の清興の色褪せてゆくものを感じた。その上このクライマックスのさわりのところまでしゃべってきた時、プツンと下座の三味線糸が絶《き》れてしまった。染丸はあの四角い顔へキッと怒りの色を見せて、「糸が絶れましたよってまた明晩お聴き直しを……」と、プイッとそのまま接穂なく高座を下りていってしまった。「オイお前、肝腎のとこで糸絶らしたら仕様ないやないかド阿呆」続いて口ぎたなく怒鳴っている声がこんな風に客席の方にまで聞こえてきた。いよいよ私は感興を殺《そ》がれた。
そのすぐあとへ隠退した音曲師の橘家圓太郎が、この間没した圓生のような巨体をボテッと運んできた。「姐ちゃんいま染丸さんに怒られて気の毒だけどひとつぺんぺんを弾いておくンなさいな」、いと慇懃《いんぎん》に彼は言った。見ていて好感の持てるような腰の低いニコニコした態度だった。いくら古く上方に住み着いていても根が圓太郎は東京人だから、染丸と違って下座一人にもこんな気兼ねをするのだろうか。がそれにしてもあの染丸のあの態度はどうも好くない。糸を絶られて芸の情熱を遮断されてしまったあの憤らしさはよくわかる。同情もできる。が、お客へまで聞こえてくるようなあんな楽屋での叱咤《しった》怒号はなに事だ。ほんとうの芸の名人はいくら泣血《きゅうけつ》の苦心をした時も汗一つかいた様子を見せないところにあるというじゃないか、春らしい噺もしやがらないで。考えれば考えるほど私は染丸がイヤになった。反対に愛想のいい芸人らしい圓太郎の姿に軽い好感さえ感じられ、そのまま立ち上がると、紅梅亭を出てしまった。こんな事があってからだんだん私は染丸の噺に溶け入っていかれなくなった。しまいには染丸がでてくるとフイと喫煙室へ立ってしまうようなことまでがあった。
三年後のある春の夜、街はもう堀江の木の花おどりの噂でソロソロ春らしく浮き立っていた。私は今別派をたてて上方落語のために苦闘している笑福亭枝鶴(今の松鶴)と南のある酒場で飲んでいた。その晩、彼はまだまだ私の耳にしていない昔の上方の春の人情を美しく織り出している落語のかずかずを、どっさり、差し向かいで聴かせてくれた。すっかりうれしくなってしまった私は、ふと思い出して何年か前の晩の紅梅亭の話をした。黙っておしまいまで聴いていた松鶴は、聞き終わるとあの髪の毛の薄い口の大きな仁王様のような赤ら顔を崩してゲラゲラ笑い出した。いつまで経ってもおかしくって笑いが止まらないようだった。やがて笑いやんだ時、彼は言った。
「ソラあんた今から三年前だッしゃろ、そうだッしゃろ。ほたら圓太郎はん上機嫌、当たり前や。ホレあの女義太夫に竹本美蝶いう別嬪《べっぴん》おまッすやろ、その美蝶とそも馴れそめのホヤホヤで、あのやかまし屋が毎晩大機嫌の時やったンやもの」
「フームそれにしても……」
やっぱり肯《うべな》えないように私は言った。
「圓太郎は圓太郎だとしても、あの下座へ噛みつくように怒鳴った染丸の態度は悪いと思うな」
そう言う松鶴はもう一度さもおかしくてたまらないというように笑い出しながら、
「ソラ仕様ない、あの下座やったら、なんぼ染丸はんに勝手なこと言われたかて。なんでてあの下座、染丸はんのおかみさんだンがな……」
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草いきれ、かッたぁ
かッたぁ
この頃、山陽の「双蝶々」のスリルに魅かれて、小柳へ連日、かよいつめた。
スケに出る貞水の「頼朝小僧」も古風でおもしろく、伯治の「仙石評定」も渋谷の寺の手入れなど愉しかったが、あのしわがれ声の陵潮は「元和三勇士」の一節でとんだお景物を恵んでくれた。それは、出てくる江戸っ子の肴屋が、
「あッしァ、かッたぁ[#「かッたぁ」に傍点]三河町でござんす」
と言ったことである。
かッたぁ――すなわち神田である。死んだ十二世雪中庵――故増田龍雨翁は、徳川の川は清かれと江戸っ子は濁音を嫌ったもので、「神田」は「かんた」「駒形」は「こまかた」「袢纏着」は「はんてんき」と当然言った。「かんだ」や「こまがた」や「はんてんぎ」では妙に近代的理性的で、つまり乙ゥ啖呵《たんか》が切れないからでさぁと生前、事あるごとに教えてくれた。
なるほど、そうであろうと思っていたが、陵潮はさらにそいつを鉄火に実践して、「かッたぁ」「かッたぁ」と発音したのは、さすがと思う。
「アキハバラ」「タカダノババ」の今日では、今夏、あるところへ書いた私の小説など、校正注意と欄外へ朱書までしておいたのに、「駒形堂」を「こまんどう」とはルビしてくれず、むざんや、標準語で「コマカタドウ」でアリマシタ。
それはそれとし、「神田」をすべて「かッたぁ」で発音してしまうと「かッたぁの明神」「かッたぁ祭り」「かッたッ子」とくるから、物事万端
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