寄席行燈
正岡容
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)儚《はかな》い
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)春風|柳《やなぎ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#歌記号、1−3−28]
−−
秋色寄席懐古
秋になると、あたしの思い出に、旧東京の寄席風景のいくつかが、きっと、儚《はかな》い幻灯の玻瑠絵《はりえ》ほどに滲み出す。
京橋の金沢――あすこは、新秋九月の宵がよかった。まだ、暮れきって間もない高座が、哀しいくらい明るくって、二階ばかり[#「二階ばかり」に傍点]の寄席(旧東京の、ことに、寄席にはこういう建築が多かった。神田の白梅、浅草の並木、みんなそうだった。明治の草双紙の、ざんぎり何とかというような毒婦ものでもひもといたらきっとこういう寄席のしじまは挿絵に見られる)から、それこそ錦絵そっくりの土蔵壁が、仄《ほの》かにくっきりとうかがわれた。
三十間堀あたりの町娘や、金春《こんぱる》芸者のひと群が、きっと、なまめかしく桟敷にいて、よけい、「東京」らしい華やかさに濡れそぼけていた。若い女たちが嬉々と笑いさざめく時、高座では青い狐の憑いたような万橘《まんきつ》がきっと、あの甲高い、はち切れたあけび[#「あけび」に傍点]の実みたいな声をあげて、
[#ここから1字下げ]
※[#歌記号、1−3−28]あれは当麻《たいま》の
中将姫だよ
やっとよーいやさ
あーれはありゃりゃんりゃん
[#ここで字下げ終わり]
その最後のありゃりゃん[#「ありゃりゃん」に傍点]を、ことさら、瓦斯《ガス》の灯の燃え沸《たぎ》るほど、ひとふし、張りあげてうたうのだった。が、きょうびはあの飄逸な万橘の唄も、我らの欣喜渇仰するほどこの頃の寄席のお客には迎えられず春風|柳《やなぎ》の田舎唄に一蹴されて、到底、そのかみの意気だにないという。
先の女房を虐げて追い出した(?)とかの祟りで、昔から寄席の儲かる時分になると、万橘は脳を患っては休むのが常だ――と、これも、自分は、金沢華やかなりし頃、嘘か、まことか、耳にしたことも、こうなると、いっそ秋寒い。
林家正蔵のスケをたのまれ、一度だけ自分はこの金沢の二世である東朝座の高座へ立つことがあったが、安支那料理屋みたいなペンキ塗りのバラックでそのかみのような下町娘は、金春芸者は、そして白壁は、広重は――もはや、見出せようよしもなかった。
桑名をながれる揖斐《いび》川の水は、今も秋くれば蒼いのにあの万橘の「桑名の殿様」がもう、東京という都会からは、歓迎されずに亡びてゆくか?と考えたら、それも、決して偶然な運命ではないように想われて、あたしは泪ぐみたいような気にさえなってくることが仕方がなかった――。これがあたしの思い出の第一。
本郷の若竹の銀襖を、晩夏の夜の愁《かな》しみとうたいしは、金子光晴君門下の今は亡き宮島貞丈君だった。ほんとうにここはまた、山の手らしい、いつも薄青い瓦斯灯の灯の世界であった。めくらで、あし[#「あし」に傍点]の立たなかった、あの小せんを最後に聴いたのが、この若竹の秋の夜だった。
小せんは、通り庭になっている秋草の植えこんであるあたりを、きっと俥から下りると、前座に負われて楽屋入りした。――それが寄席からうかがわれるので、いっそ、我らに涙だった。
小せんの上がる前というと御簾《みす》が下りる。蒲団へ座った小せんの四隅を、前座がもって高座に上げる。――やがて、音もなく、御簾が上がる。――小せんは、さびしい面輪をふせて、身を、釈台に凭《もた》らせている……。
バタバタと鳴る拍手――その拍手さえ小せんにおくるお客たちのは妙にさびしく遠慮がちだったのを、あたしは、忘れることができない。その晩小せんは「近江八景」という、惚れた遊女が果たして自分のところへくるか否か、易者にみてもらう、あの噺をやったけれど、
「おめえの顔なんざ、梅雨どきの共同便所へはだしで入って、アルボース石鹸で洗ったような顔だ」
云々という独自のクスグリを、ずいぶん身にしみて、聞いた記憶がある。
小せんは、あれからじき患いこんで、翌《あく》る四月の末に死んだが、最後を秋の夜に聴いたゆえか、自分は小せんの死というと、あの若竹の秋の夜が、あの若竹の打ち水濡れし前栽が、目に泛《うか》ぶ、さらに山の手の寄席の夜らしい耶蘇の太鼓が耳につく……。
これが、思い出の第二。
もう、文展のはじまる時分、曇った秋の午後三時を、上野の鈴本で聴いた圓蔵の噺も忘れられない。
品川の圓蔵と称えられる、先々代の圓蔵である。
故人芥川龍之介は、この人を讃えて、「からだじゅうが舌になったかと思われる」と叙したが、まことや、故圓蔵の、ピリオッドのない散文詩集をよむような、黄色い美酒の酔いごこちは、いま想っても、すばらしい。
明治、大正の噺家で、いくたり、あれだけの飄逸があろう?
この日は昼席の有名会で、我が圓蔵はたしか「八笑人」をやった。
喋っているうち、だんだん秋の曇り日が暗くなりだして(その頃、鈴本は、今のところの向こう側にあって、二階と三階とを寄席にあてているこしらえ[#「こしらえ」に傍点]だったが)白い障子が時雨《しぐれ》れてきた[#「時雨《しぐれ》れてきた」はママ]。
圓蔵の顔がしばらく、暗く、うすらかなしく、その中から、「八笑人」の、あの仇討のひとくさりの「ヤーめずらしや何の某……」。あすこのくだりばかりが、急速なテンポをもって、しきりと我らの胸に訴えられてきた。
広小路に早い灯花《あかり》がちらほら点いて、かさこそと桜落葉が鳴り、東叡山の鐘が鳴ったが、立つ客とてはひとりもなかった。
ついでにこの日、小さんは何を演《や》ったか忘れた。圓右が「業平文治」だった。文字花が「戻り橋」を一段語った。右女助《うめすけ》も若手で目をパチパチと「六文銭」を聴かせてくれた。
思い出の、第三。
立花家橘之助は、今も六十近くをあの絶妙な浮世節の撥《ばち》さばきに、さびしく薬指の指輪をかがやかせているであろうか? その頃(震災の二年ほど前)橘之助は、小綺麗な女中をつかって、四谷の左門町に二階を借りていた。
あたしは、その頃、鴉《からす》鳴く秋のたそがれ、橘之助自身から、そのかみの伊藤博文と彼の女にまつわる、あやしい挿話をきかせてもらったことがある。
橘之助は、博文公と、かなり、前から深い知り合いだったものらしい。で、公がハルピンへゆかれるときもその送別の席上、
「今度、俺が帰ってきたら、有楽座のようなボードビルを建ててやるから、自重して、そこへお前は年に二回くらい出るようにしろ」
と、公は言われた。
「御前、それは、ほんとうですか」
橘之助は、夢かとよろこんで、公をハルピンへ発たせたが、それから数カ月、ある夜、人形町の末広がふりだしで、橘之助高座へ上がると三味が鳴らない。ぺんとも、つんとも、まるで、鳴らない。とうとうそのまま高座を下りたが、悪寒はする、からだは汗ばむ、橘之助、何十年と三味線をひいて、こんな例は一度もない。昔何とかいう三味線ひきが、品川であそんでいて、絃の音色で安政の地震を予覚したという話さえ思い出して、これは、遠からず何か異変があるのじゃないかとさえ、心、ふるえた。
そうして、いやいやながら顔だけ出そうと、ほかの席はすっかりぬいて、トリの恵智十へ入るとたちまち今度はスッと胸が晴れた、そういってもいつもよりかえってほのぼのとすがすがとなって弾いた、うたった。うたった、弾いた。いつもの五倍もはしゃぎにはしゃいで、さて、そのあくる日、湯島の家で昼風呂につかっているといとけたたましい号外の声。
はてなと小首をかしげる間もなくその号外は、
「伊藤公ハルピン駅にて暗殺さる」
云々。
はじめて心に橘之助、昨夜の怪異が深く深く肯かれたというのであるがあたしは橘之助の、あの狸のような顔が、何かその時もの凄いありったけに思えて、ぞっと水でも浴びたここちに、四谷の通りへ駆けて出ると、ここでも秋の夕の小寒い灯が何がなし、あたしの瞳にいぶかしく、うつった。
これが、思い出の、そうして、第四。
秋の思い出は、恋といわず、無常といわず、みんな、さびしい色ばかりだ。
[#地付き](昭和三年夏)
[#改ページ]
寄席のちらし
たのまれて書いた戯作調の広告文は、やはり寄席や噺家のが多い。
やがては散逸してしまうであろうから、この小片へ書きつけておくこととした。
口上
昔を今に百目|蝋燭《ろうそく》、芯切る高座の春宵風景、足らわぬながら再現したく、時代|不知《しらず》とお叱りを、覚悟の上で催したるに、しゃーいしゃーいの呼び声も、聞こえぬほどの大入りに、ありがたいやら嬉しいやら、中席十日を限ってさらに御礼興行|仕《つかまつ》りますれば、銀座柳も蘇る今日、昔恋しい三遊柳、当時の繁昌|喚《さけ》ばしめたまえと、新東京の四方様方に、伏してお願い申し上げます。
[#地から1字上げ](昭和七年四月、神田立花亭、初めて古風な蝋燭仕立ての会をせし時)
口上
薫風五月夏祭、神田祭を今ここに、寄席へうつして短夜を、花万灯や樽神輿、さては揃いのだんだら[#「だんだら」に傍点]浴衣、神器所《みきしょ》の灯火眩ゆくも、いや眩くも千客万来、未曾有の評判得させたまえと、立花亭主になり代わって「祭の夕」の軒提灯にあかあかと灯をさし入れるは、昭和戯作者の末座につらなる。
[#地から2字上げ]正岡 容
[#地から1字上げ](昭和七年五月、同じ寄席の「江戸祭の夕」の時)
つつしんで口上
広重の空、桔梗にぞ澄む早夏六月、おなじみ蝶花楼馬楽の会、丸一社中が花籠に、二つ毬《まり》の曲《くるい》に興ぜば、梅坊主連のかっぽれは、深川育ち夏姿、祭めかして懐しく、かてて馬楽トンガリ座の、若手新人熱演に、圓朝以来の芝居噺、紅白道具のどんでん返しは、演者苦心の神経怪談こころ[#「こころ」に傍点]をこめて勤めますれば、偏《ひとえ》に大入り満員の、祝花火を巨《おお》きく真っ赤に、打ち揚げさせたまえと祈るは、催主馬楽がいささかの知り合い、東都文陣の前座を勤むる。
[#地から2字上げ]正岡容に候《そうろう》こと実証
[#地から1字上げ](昭和七年六月、国民講堂「馬楽の会」の時)
二人会への口上
ハナシカは雪くれ竹のむら雀、ジャズっては泣き、じゃず[#「じゃず」に傍点]っては哭《な》きとは昔むかしその昔、九郎判官義経さまが、橋の袂《たもと》に腰打ちかけて、向こうはるかに浅草の灯を、眺めし頃のタワゴトなり。春風秋雨二千年、さてこの頃の噺家さんは、処世に長《た》けて貯金に秀いで、節倹は経済の基を論じ、自ら常識の地獄に堕ちて、五大洲にも誇るべき、花咲く荒唐なんせんす芸術、「落語」の情操をいたずらに、我と汚しつつあるの秋、巨人|鈴々舎《れいれいしゃ》馬風あり、珍人橘の百圓あり、一は豪放でたらめ[#「でたらめ」に傍点]にして、一は変才煥発なり。かかるタノモシキ珍漢ありて、八百万《やおよろず》世のオール落語は、前途ますますめでたからんと、大提灯をもつものは、これも東都文林に、呆れ果てたる能楽野郎、あいさ、正岡容に候。
[#地から1字上げ](昭和七年十月、金車亭、馬風・百圓二人会の時)
……とまれ、こうしたいかにも昔の日本の素町人みたいな、たとうれば窓辺の鮑《あわび》ッ貝に咲く、あの雪の下の花にかも似た感情も、じつは、まだ、我らの感情の、どこかに残ってはいるはずである。
[#地から1字上げ](昭和九年秋)
[#改ページ]
モリヨリヨン
モリヨリヨンは、狂馬楽が先代文楽と、それぞれの前名千枝伝枝のお神酒徳利でつるんで[#「つるんで」に傍点]歩いていた頃に創作した落語家一流の即興舞踊とつたえられる。最近では近時没した両者崇拝の可楽がよく記憶《おぼ》えて
次へ
全3ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
正岡 容 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング