証拠には、今では野分とか、吹雪とか、しまきとかいうものの中に私たち多少、風流気のある奴は、一種いうべからざる趣をさえかんじつつあるからである。そうして草いきれなんかも、まさにその一つだろう。
 かくいう私が、今の今まで草いきれというもの、愉しい、風流なものだとばかり、信じていた。信じきっていたから妙である。
 そしたら、先月、釈場へいって西尾魯山の「東海白浪伝」――日本左衛門を聴いた(魯山は先代馬琴門下だからお家芸のこれを演るのだろうが、退屈で、渋滞で、はなはだ結構でない。いたずらに故陵潮の巧さを思い返させるのみだった。さらに私よりひと時代前の人たちは、当然の言として故馬琴の醍醐味に思い至ったことだろう)。はじめて聴いたくだりであるが、何か天竜川の近くで、昨日渡世人の足を洗ったばかりという老侠へ止むないことから喧嘩を挑みかかる日本左衛門の意気地を叙した一席だった。
 その中で、サーッと大夕立が降ってくる。見附辺りの宿駅と思うが、旅人が逃げる、馬子が逃げる、女子供が逃げ惑う。その時、ある男が、いきなりこう言う。
「いいお湿《しめ》りで、これで草いきれもなくなることでござりましょう[#「草
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