。が、お客へまで聞こえてくるようなあんな楽屋での叱咤《しった》怒号はなに事だ。ほんとうの芸の名人はいくら泣血《きゅうけつ》の苦心をした時も汗一つかいた様子を見せないところにあるというじゃないか、春らしい噺もしやがらないで。考えれば考えるほど私は染丸がイヤになった。反対に愛想のいい芸人らしい圓太郎の姿に軽い好感さえ感じられ、そのまま立ち上がると、紅梅亭を出てしまった。こんな事があってからだんだん私は染丸の噺に溶け入っていかれなくなった。しまいには染丸がでてくるとフイと喫煙室へ立ってしまうようなことまでがあった。
三年後のある春の夜、街はもう堀江の木の花おどりの噂でソロソロ春らしく浮き立っていた。私は今別派をたてて上方落語のために苦闘している笑福亭枝鶴(今の松鶴)と南のある酒場で飲んでいた。その晩、彼はまだまだ私の耳にしていない昔の上方の春の人情を美しく織り出している落語のかずかずを、どっさり、差し向かいで聴かせてくれた。すっかりうれしくなってしまった私は、ふと思い出して何年か前の晩の紅梅亭の話をした。黙っておしまいまで聴いていた松鶴は、聞き終わるとあの髪の毛の薄い口の大きな仁王様のよ
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