夕の時は町中が藪になるし、秋の地蔵盆にはどこの路地裏でも若い娘たちが三味線を弾いて踊っていた。つまりそうした古い懐かしい季節の風習を一つ一つ彼らは美しく慎み深く繰り返していったのだった。従ってその頃の大阪の落語家は、春がくると必ず春の行事を材とした落語を演り、マザマザとそうした市井の人情風俗を活写してくれた。松翁となった松鶴の「天王寺詣」にはやわらかに彼岸の日ざしが亀の池を濡らし、故枝太郎の「島原八景」は朧夜《おぼろよ》の百目蝋燭の灯影《ほかげ》に煌《きらめ》く大夫の簪《かんざし》のピラピラが浮き彫りにされ、故枝雀の「野崎詣」は枝さし交わす土手の桜に夏近い日の河内平野が薄青く見えた、ちょっと数えても春の落語がこれだけあった。その他「桜の宮」とか「鶴満寺」とか、「崇徳院」とか等、等、等――。
そうした上方落語華やかなりしある春の夜、昔の大阪らしい春らしい人情絵巻を満喫したさに今夜も私は、オットリ灯の色を映し出している法善寺の路地の溝板を踏んでもう今はなくなった紅梅亭という寄席へ出かけていった。
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逢いに来たやうに紅梅亭をのぞき
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という川柳があったけれど、ほんとうにそうした慎しやかな中に何ともいえない艶気を含んだ古風の表構えだった。
が――中入近くに入って行ったその寄席の高座ではフロックを着たノッポの男がカードの手品を見せていた。そのあとへは清元の喬之助婆さんが若い女の子を連れて上がってきた。かけもちの都合があるとみえて次の三木助は小噺一つであっさり踊って下りていった。いささか私はガッカリした。やっと顔を見せた染丸はなぜか季節に構わぬ「堀川」という噺をやった。
ひどい寝坊の男を、母親が朝起こすのに骨を折っていると猿廻しが浄瑠璃の「堀川」のサワリの替唄で起こしてやる。ここで下座の女に太棹の三味線を弾かせ、
※[#歌記号、1−3−28]お起きやるか、目痛《めいた》や目痛やなア、ウヤ源さんイヤ源さんイヤ日天《にってん》さんがお照らしじゃ、時間何時や知らんか(中略)イヤ腕力な、イヤさりとはノウヨホ[#「ノウヨホ」に傍点]あろうかいな、けんかなぞ止めようかいな(下略)
といったようなあんばい式にやるのだが、いったいに長屋のしじま[#「しじま」に傍点]こそ滲んでおれ、主人公そのものが没義道な不快な性格で少しも愉しくなれな
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