俳優として不朽の青春をもてあそびおり、二十年一日、旧東京招き行燈の灯影を恋おしみ、寄席文学の孤塁を守りいるものは、私ひとりとなってしまった。
だが、今にして私は思う、このモリヨリヨンというものを、モリヨリヨンの「本体」というものを。それは、その頃の落語家なるもの、一に話中の八さん熊さんと精神生活を等しうしてその狂態を活写すべく、まず常日頃よりおのれが身辺に妄動する小理性の閃きを皆無たらしめんとして、かかる愚かしきなんせんす舞踊の特技をば、ことさらに研き、身につけていたのではなかったか、と。あたかもそのかみの歌舞伎女形、「疝気《せんき》をも癪《しゃく》にしておく女形」の心得を四六時中忘れざりしがごとくに、である。しかりしこうして神崎武雄君、
「世の落語家のとにかく我々同様の愚かしきところを片相手に云々と紋切形のまくらを振るは、かくいいてまずその落語家自身の身辺にみなぎる常識、理性の色彩を抹殺せむ用意」
とかつて喝破せられしもまた、じつに同様の消息を語るものとぞ思わるる。
それ五風十雨《ごふうじゅうう》の太平の御世なりしかば、そのような愚かもまたなし得たのだと人、誰か、いう。太平逸楽の頃の落語家にしてなおかつ、この常在戦場の心構えあったのではないかとさえ、むしろ私は叫びたい。すなわち方今の落語家諸君は、近代の儀礼教養をことごとく習得しつつ、一方その近代教養の槍衾《やりぶすま》に高座の演技、常識地獄に堕せざるよう昔日の人々の二倍三倍のよき愚かしさを身につけるのでなければなるまい。文明開化の聖代は、ついに落語家の習練にも、精神上の二重生活をしいるに至ってきたのである。まことに難しとしなければなるまい。
教養過重にて、とにかく、底抜けの笑いを発散、開拓し得ぬ年少の落語家某君を連日にわたって戒めているうち、談、たまたま往年のモリヨリヨンが珍技に及び、私は感慨すこぶる量りなきものがあった。後日のしのぶ草また数え草、かくは書き留めておく所以《ゆえん》である。
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寄席朧夜
今から十二、三年前までは大阪の街の人たちは春がくると、美しい花見小袖を着、お酒やらお重詰やらをたくさんこしらえて堀江の裏の土佐の稲荷へお花見に出かけた。町も町も町のド真ん中のお花見だけれど、これがなかなか風流なもので昼は昼、夜は夜桜で、歌い、華やぎ、楽しんでいた。ばかりでない夏の七
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