朝二十六歳の夏だった。
「アラ葛ざくらなんか。じゃ、こっちの有信亭の共白髪《ともしらが》のほうがオツでさあね。ね、ほら、アーンと口をお開きなさいよ」
 いっぱいの幸福感を顔中に漲《みなぎ》らせて、お絲は、風雅な朱塗りの箸で名代《なだい》の共白髪をはさみかけたが、
「おっとっと、お絲、それにゃおよばねえて」
 また、その白い手を押さえて圓朝は、
「あっしは親代々の落語家だ。――こんな品ものよりも、小大橋辺りの腰掛けで惣菜物でも食べるほうが柄だろうて」
「……まあ、おッ師匠さんは、なんで今夜はそんなキザばかり言うんだろうね。あたしのお気に召さないところは、あけりゃんこ[#「あけりゃんこ」に傍点]にぶちまけて、叱ってくださればよいものを、ええもう、じれったいったら」
 やっぱり幸福感をたたえた顔のまんまいざり寄ってきて、男のやさしい撫で肩へ手をかけようとしたとき、
「しッ、しずかにしろイ。お前に怒っているんじゃねえ。見ろイ、向こうの船にゃあ、敵役がいらあな」
 圓朝はそれを振り払い、豪奢な煙管で一重帯ほどの水を隔てた向こうの船を指さした。

 筋向こうの屋根船には、当時の落語家番付で勧進元の
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