とする。そして「第三」を見てほしい。
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  断章の三

 およそ人間のさいころは、六が続くと、また一《ピン》が出る。
 運には限りのあるもので、圓朝ほどの傑物も、まもなく本邦速記術の発達により、若林|※[#「王+甘」、第4水準2−80−65]蔵《かんぞう》、小相英太郎、今村次郎の速記をもって「牡丹燈籠《ぼたんどうろう》」「安中草三」「塩原多助」「美人の生埋」「粟田口」「乳房榎《ちぶさえのき》」「江島屋」「英国孝子伝」と相次ぐ名作が、落合芳幾、水野年方らの艶麗な挿絵に飾られて、やまと新聞、中央新聞に連載され「塩原多助」を井上侯邸でかしこくも陛下の御前講演の栄に浴したる五十三歳の明治二十四年を絶頂としてようやく、その運勢は華やかな姿から遠ざかっていった。
 席亭の横暴を憤り、逸足として鳴っていた圓生、圓遊、圓喬、圓太郎、圓橋、圓馬の門人たちと語らって、席亭克服のひと旗をあげようと計ったが、門人中に裏切ってつとにこの連動を席亭側へ知らせたものがあり、この結束は崩壊してしまった。
 絶望した圓朝は、
「もう私は、東京の寄席へはいっさい出ないから」
 と、当時、新宿北町に結んだ草庵円通堂に閉じこもり、禅三昧に俗塵《ぞくじん》を避けた。
 わずかに、翌二十五年九月、大阪浪花座へ一枚看板で乗り込んでいったが、帰京後、まもなく彼は人力車から振り落されひどい負傷をした。いよいよ世の中が面白くなかった。
 いくら禅学に心身を打ち込もうとしても心乱れて、次第に白髪が増えていき、見違えるほど老い込んでいった。そのたび、圓朝はしずかに目をつむった。そして、あの花火の晩のことを考えた。不思議にあの晩のことを考えると、十も二十も若返ってくる思いがされた。
 明治三十二年月十月、ついに日本橋の大ろじで「牡丹燈籠」を長演したのが最後の高座となり、その年の暮れから彼は、枕も上がらぬ病の床に臥《ふ》してしまった。年がかわると冬から春へ、やがて夏へ、とって六十二歳の圓朝は、いよいよ衰弱の多きを加えた。
 進行性麻痺兼続発性脳髄炎との長い病名で、すでに脳の中枢をやられていたので、ときどきもののけじめがわからなくなった。

 八月三日の日暮れ近く――。
 下谷広徳寺近くの圓朝の家では、よく繁った樫の葉蔭にみんみん[#「みんみん」に傍点]蝉が啼き立てていた。
「どうだい、おい、師匠の容態は」
 
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