りランプ》の灯影に、勅使河原静江と呼ばれるその女は、行儀よく膝の上へ並べた圓朝のしなやかな手をツイと自分のほうへ引き寄せると、
「ね、いいでしょう。たまには約束を履行するものよ。師匠は文明開化の存在だから、おおいに女権を認めてくださるでしょう」
くずれるほどに濃い口紅の唇を圓朝の頬近くへさし寄せて言ったけれど、
「お断りいたします。今晩は、馬越さまのお邸へ先約がございます」
しずかに彼はその手をふりほどいて言った。
「まあ失礼な、そんなことお言いなら、私のほうの先約は、何カ月前からだか、わかりはしない」
「それは、あなた様が御勝手に独りぎめをなさったのでございます。静江様――」
キッパリ言葉をあらためて、
「あなた様は、かりにも勅使河原子爵のお嬢様ではございませんか。寄席の楽屋などへ馬車をお停め遊ばしてはいけません」
「アラ、私はお嬢様ではないよ。その日暮らしの出戻りだよ」
「いいえ、そんなことはございません。たとえただ今は御破婚のお身の上でも、やがては必ずよい日がおとずれて参ります。くれぐれも御自重なさらなければいけません。圓朝にはそんな浮気のお相手はできません」
「あら、なにを言うのさ。私は浮気ではありませんよ。ほんとうにお前の芸を愛して……」
「それがお心得ちがいでございます。不肖圓朝の芸をひいきにしてくださるのは、冥加に余る喜びでございますが、それとこれとはまた別でございます」
「……でも……」
「お嬢さま、あさっての晩、もう一度、この寄席へお出で遊ばしませ。読み続きの『累ヶ淵』は女師匠の豊志賀が、年下の新吉という男と、ほんの一夜の浮気から、まったくその身を誤って死んでしまう件《くだり》をばお聴きに入れます。失礼ながらあなた様は、立派な開化のお嬢さま、間違ったただいまの御了見に、とくと御理解が参りましょう。――もしお嬢さま、このごろ時花《はやり》の都々逸には、※[#歌記号、1−3−28]苦労気がねを積み重ねたる二等煉瓦の楽住居――ということがございます。圓朝は、あなた様におめでたい春のめぐってくる日を、心からお祈り申しております」
あくまで真摯な圓朝の態度に、今はラム酒の酔いも醒め果ててか、勅使河原静江は悄然とうなだれてしまった。奇麗に剃られている首筋が、草の葉のように寂しかった。
が、己の信ずるままを語り終えた圓朝は、帯の間から、懐中時計を取り出
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