た』
『ヘエ、お痛みでござりますか。けれどもまだまだこんなことではござりません。あなたのお脇差で、この左の肩から乳のところまでこう斬り下げられましたときの苦しみは……』
『エ、なに……』
振り返って見ると先年手打ちにした盲人宗悦が骨と皮ばかりに痩せた手を膝にして、怨めしそうに見えぬ眼を開いて、こう乗り出したときは、深見新左衛門は酒の酔いも醒め、ぞっと総毛立って、怖いまぎれに側にあった一刀をとって、
『おのれ参ったか』
と力に任して斬り付けると、アッというその声に驚きまして、門番の勘蔵が駆け出してきてみると、宗悦と思いのほか、奥方の肩先深く斬りつけておりました。
深見新左衛門、宗悦の祟りでいよいよ狂う。
『累ヶ淵』の発端、また、明晩へ続かせていただきます」
ぞっとするようなこの切れ場で、巧みに圓朝は話を切って、
「…………」
あたまを下げたが、不世出の名人が一言一句に擒《とりこ》となったお客たちは、なおもしばらくは立ちもやらずボーッと座ったままでいたが、やがてドロドロと鳴り出した楽屋の果太鼓にはじめて我に返るとドーッと万雷の拍手をおくった。
「ありがとうございます。お静かにいらっしゃいまし、お静かに」
客席の雑踏へ二、三度、声をかけると、ようやく高座を立って楽屋へ下りていったが、
「御苦労さまでございます」
「お疲れさまで」
口々に声をかける弟子のなかで、鳶《とび》のような口付きをした色の黒い勢朝が、
「師匠、お客さまですぜ」
「なに……お客様? 困ったな……」
チラッと涼しい眉をしかめて、
「……今夜は、芝の馬越さまへお招《よ》ばれなのだが、どなた様だ」
「ヘイ、それが、あの……」
なぜか勢朝が口ごもったとき、
「あら、師匠。私、勅使河原静江よ」
早くも楽屋の次の間から、眉の濃い目のパチリとした派手やかな顔のこの貴婦人は夜目にも白牡丹の花束のような厚化粧で金ぴかずくめの西洋服に、ボンネットとやらいう鍔広《つばひろ》の花帽子をかぶり、ラム酒の匂いをプンプンさせながら、艶かしく全身を屈らせて圓朝を迎えると、
「ねえ、ねえ師匠、私今夜どうしても師匠を離さないわよ。圓朝師匠は私のものよ」
けたたましく声立てて女は笑った。
「ねえ、師匠さん。今夜、約束だから、私と付き合ってくださいね。――表に馬車が待たせてあるんだから」
楽屋に隣る四畳半で、吊洋燈《つ
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