暗い傍らにスッと立っていた。ついこの間母親に死なれ、今では圓朝の家に引き取られている下座のお八重だった。
「ア、お八重ちゃん」
柄にもなく顔中を真っ赤にして圓太郎は、ドキマギした。
お八重
「お前さん、さっきの話、ほんとに儲かると思ってるの」
勝次郎の帰ったあと、お八重は言った。
「ウン」
圓太郎はコクリとした。
「ほんとに」
牡丹の花のようなお八重の顔が、ジイーッと覗き込んできた。
「だって盆と正月が一緒にくる商売を始めるンじゃねえか。古今亭の兄貴が太鼓判を押したンだ。儲からねえはずがあるもンかな」
「マー、じゃアやっぱりあんた本気にしていたのねえ。注意してあげてよかったワ」
大柄の弁慶縞の襟をかきあわせて、お八重はホッとしたようだった。思いなしか、ランプの光に浮き出しているパッチリした美しい目が濡れていた。
「ネエ、圓太郎さん。よく考えてみてちょうだい。お盆てものはお迎火を焚いて仏様をお迎えするときなのよ。だからどこの家でも坊さんを呼んでお経をあげるのよ。盆提灯てのはつまりそのときに吊り下げるものなのよ。死んだ人のために吊すお提灯がなんでおめでたいの」
「…………」
「そンなものを、事もあろうに元日早々、盛り場へ持ち出してって売ったら、縁起でもないって半殺しにされちまうわよ。それに売ろうたって今時分、盆提灯なんぞどこの提灯屋にもあるもンですか」
「…………」
「第一、教えた人がいけないわ。よりによってお前さん、ホラ[#「ホラ」に傍点]今さんじゃアないの」
高座の今輔のほうを、チラリと彼女は見た。
「世のなかにあンな法螺吹《ほらふ》きあるもンですか。口から出放題のでたらめばかり言っちゃ、しょッちゅう皆を担《かつ》いでる人じゃないの。そンな人の言うことでもやっぱりあんた信用する……?」
「ア、そうか、ホラ今かア」
はじめてシマッタという顔を、彼はした。そうだそうだ、平常《ふだん》からとても人の悪い今輔の野郎だったッけ。エエそうだッけ、俺としたことが――。
「ネ、わかったでしょう」
「わかったわかったよ、すッかりわかった。畜生、今輔の野郎ひでえ野郎だ。とんだ恥をかくところだった、ほんとにほんとに……」
しばらく口惜しがっていたけれど、
「ありがとよ、お八重ちゃん」
ピョコリとひとつお辞儀をした。
「アラいいのよそんなお礼なんか。それよりわかっておくれでほんとによかったわ。でもこれからもあることよ。みんなそりゃ人が悪いンだからよっぽどあんた気をつけなくちゃ……」
「ウン、ウン」
おとなしくうなずくと、
「じゃ、ありがとう。またあしたの晩」
テレくさいのか、プイと立ち上がってそのまま楽屋口から出てゆこうとした。
「ア、ちょっと待って圓太郎さん。明日の朝早く、おッ師匠さんが来てくれって。なんだかお前さんに話があるンですって」
「エ、師匠が。いけねえ。また小言じゃねえかしら」
日常生活にカラ[#「カラ」に傍点]だらしのない圓太郎。小言ときたら番毎《ばんごと》だった。チョイと心配そうな顔をした。
「サー、なんだか知らないわ。でもたぶん小言じゃないでしょう。もしも小言だったってだいじょうぶよ。そンときはあたし、あやまってあげるわよ」
「ウム。なにぶん頼んだよ」
「引き受けたわ。だから安心して……」
お八重はニッコリ笑ったが、
「ア、そうそう圓太郎さん、お前さん春のお小遣いないンでしょ。ないンだったらおッ師匠《しょ》さんにおもらいなさいよ。言いにくいンだったら言ってあげてもいいし、もし少しくらいだったらあたしだってなんとかなるわよ」
「ソ、そんなことだいじょうぶよ、お八重ちゃん。俺だってどうにかなるよ」
あわてて彼は手を振った。
「そう、ほんとにいいの」
「いいンだよ、じゃ明日の朝早くゆくよ。でも今夜のことお八重ちゃん、師匠には黙ってておくれネ。じゃ、さよなら」
ガラガラと格子を開けて、威勢よく圓太郎は表へ飛び出していった。路地の溝板がカチカチに凍《い》てて、月が青い冷たい光を投げていた。
路地の出はずれまで早足で行って振り返ると、格子につかまって見送っているお八重の白いクッキリした顔が小さく見えた。ゾクゾクするほど[#「ほど」は底本では「ほと」]彼はうれしかった。ことに今夜の心づくしを考えるとき、涙ぐまれるほどありがたかった。圓太郎は右手を上げて振ってみせた。
俺はお八重坊が好きなンだ――圓太郎はそう思った。あの女のもっているもののひとつひとつが、みんな血にかよう親しさ懐しさだった。
でもあの娘は俺みたいなドジ[#「ドジ」に傍点]なブマ[#「ブマ」に傍点]なまぬけな野郎に金輪際惚れてくれるわけがねえ、そう考えるとにわかに日が暮れたように寂しくなった。
しかたがねえ、高座は一人前以上でも常日頃の
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