ことにかけちゃアカラ[#「カラ」に傍点]だらしのねえ俺だもの。夜中の町を駆け出してゆきながら彼は、身体中でベソを掻いていた。


  圓朝の家

 梅咲くや財布のうちも無一物――禅味のある一流の字で認められた山岡鉄舟先生の半折をお手本にして、三遊亭圓朝は、手習いをしていた。浅草代地河岸の圓朝の宅。ツルリと抜け上がった額を撫でながら圓朝は、「梅咲くや」「梅咲くや」となんべんも書いては消し、書いては消していた。その前にかしこまって圓太郎は、いまだ用件も聞かされないままでいた。
 ギイ……ギイ……ギイ……墨田川を滑ってゆく艪《ろ》の音が聞こえて、師走の朝日の濡れている障子へ映る帆の影が、大きく、のどかに揺れていった。その帆影をボンヤリ見ながら、今日はお八重ちゃんはいないンだな。圓太郎はそんなことを思っていた。でも朝早くからいったいどこへ出かけていったンだろう。
「あの……お前、昨日ねェ」
 そのときだった。ムックリ圓朝が顔を上げた。そうして話しかけた。
「……ヘ、ヘイ」
 フイ[#「フイ」に傍点]を食って圓太郎はドキマギした。
「イエ、あの昨日たのんだお座敷ねェ。あれはお前、確かにつとめてきておくれだったのかえ」
 やさしい声で圓朝は、訊ねた。
「ヘイ。あの昨日のお座敷って、あのホレ年寄の養老院の一件でござンしょう。エエあれならもう間違いなく行って参りましたよ。落語家なんか滅多に来ねえから、面白え面白えってよろこんでくれるもンでついうれしくなって、馬力をかけてやりましたよ、五席ばかり」
「五席? おやおやたいそうおやりだったねェ。してなにとなにをおやりだったえ」
「病人の噺にゆき倒れの噺に宿無しの噺だったかナ。ついでに、アアそうそう。泥棒の噺を二席たッぷり聞かせてやりましたッけ」
「…………」
 とうとう圓朝はおなかをかかえて笑い出してしまった。場所もあろうに養老院へ行って宿無しやゆき倒れの噺をすれば世話はない。
「アレ師匠。なんだって笑うんです。気味が悪いなあ」
「なんでもいいんだよ。それより圓太郎、私アお前に昨日越中島の養老院の年忘れに落語《はなし》をやってきておくれとお頼みしたンだよ。だのにお前、とんでもないところへ行っておしまいだったねェ。おまけにそこで泥棒の噺までおやりだったと言うじゃないか。まア、その書付をよーく見てごらん」
 クスクス笑いながら鉄舟居士の半折を脇へやって圓朝は、その下にあった奉書包みの書付をポーンと圓太郎の前へ放った、恐る恐るそれを開いてみて、アッ。さすがの圓太郎もドキンとした。思わず顔色を変えずにはいられなかった。
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 今回当監獄所囚人ヘ落語無料長演シ奇特千万ニ付キ、模範囚人苦心調製の七宝製大メダル一箇贈呈ス
[#ここで字下げ終わり]
[#地から4字上げ]石川島監獄所主事
          月 日[#地から3字上げ]猪熊秀範※[#丸印、57−10]
          橘家圓太郎殿
 ウヘツ。越中島の養老院だと今の今まで思い込んでいたのに。なんとこれはまた、石川島の監獄所へ余興に行ってきちまったンだ。しかもそんな囚人たちを前にして、泥棒の落語をば長講熱演してきたなんて。
「ヤ[#「ヤ」に傍点]だヤ[#「ヤ」に傍点]だ師匠。道理で養老院だてのに若えおッかねえ野郎ばかりゾロゾロいると思いましたよ。ウルル[#「ウルル」に傍点]、気味が悪い」
 大袈裟に立ち上がって身ぶるいをした途端、
「ア、いけねえ」
 ヒョイと蹴つまずいて圓太郎は、モロ[#「モロ」に傍点]に足もとの土瓶をひっくり返した。ダブダブお茶が流れ出して、みるみるうちに鉄舟居士の半折がシーンと端から濡れていった。
「濡れる濡れる、早くどかしておしまい」
 さしもの圓朝が眉をしかめた。
「ス、すみません。でもだいじょうぶですよ師匠。ホーラ、ちゃんとこの通り持ち上げていますから」
 鬼の首でも取ったように圓太郎は、シッカリ両手で、土瓶のほうを差し上げていた。
「アラ違うわよ、土瓶じゃないのよ圓太郎さん。こっちのこの半折のほうなのよ」
 いつの間に戻っていたのだろう、ソソクサ次の間から走ってきたお八重が赤い襷《たすき》もかいがいしく、圓太郎を突き退けるようにしてビショ濡れの半折へ飛びついてゆくと、濡れた両端をソーッと持ち上げ、縁側まで持っていって、日に当てた。男勝りのクッキリした、横顔が朝日を浴びて、薔薇色にかがやいていた。
「すみません、申し訳ございません」
 が、肝腎の圓太郎のほうはまだ土瓶を差し上げたまま、いつまでもいつまでもあやまっていた。


  恋ごろも

「なんとも彼ともお詫びの申し上げようがございません。これからほんとに気をつけます。御勘弁願います」
 ひと片づけすんだのち圓太郎は、平蜘蛛のようになってあやまった。
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