が、もう圓朝はなにごともなかった前のような顔をして、風雅な火桶に手をかざしていた。
「いいンだよ圓太郎。毎度のことだから、家はもう馴れているけれどもね。よそ[#「よそ」に傍点]様へうかがったときはお気をおつけよ。お前は人一倍そそッかしいンだからネ」
「申し訳ございません」
圓太郎は自分で自分が怨めしくなっていた。穴があったら入りたい。ほんとにそうした気持ちだった。
「サ、御褒美だよ」
二十銭貨が五枚、手をついている自分の前へバラバラ圓朝の声と一緒に落ちてきた。
「冗、冗談しちゃいけません師匠、失敗《しくじ》ったのに褒美てえのはないでしょう。そんななにもダレさせるようなことをなさらねえでも」
「ダレさせやしないよ。御褒美は嘘だけれど、実はその一円でお頼みがあるのさ。お前さん、元は大工だろう。ひとつ大工さんの昔に返って一斗|桝《ます》をこしらえてもらいたいンだ」
「一斗桝。ヘーエ、一斗桝てえとあの師匠、一升桝の十倍ですねェ」
「そうだよ」
「一升桝の十倍か」
クリクリした目をつむってしばらく圓太郎は胸算用をしていたが、
「ヘイ、よろしうござンす。あしたの朝までに間違いなくお届け申します」
「頼みましたよ。ほかにも入用のお金があればいくらでもあげますからネ。遠慮なくそう言っておくれよ」
「承知しました。じゃア師匠、明日の朝」
思いがけなく春の小遣いにありつけたうれしさ。圓太郎は有頂天になっていた。
「ア、圓太郎。もうひとつ頼みがあるんだ。頼まれついでにもうひとつ。台所へ棚を吊ってッておくれでないか」
「おやすい御用で。すぐ吊りましょう」
ここが忠義の見せどころと、スッと圓太郎は立ち上がった。菰冠《こもかぶ》りがひとつドデンと据えられ、輪飾りや七五三《しめ》飾りがちらばっている大きな台所へゆくと、チャンと大工道具が置かれてあった。お八重が棚板を二枚持ってきてニコッと笑っていった。
「オイきた」
その棚板を左手でかかえ、右手で鉄槌《かなづち》を、口で釘を三、四本含んで圓太郎は、荒神様と鼠入らずの間の板壁のところまでゆくと、瞬くうちに棚をひとつ吊りあげた。すッかりこさえあげると、二、三間離れて様子を見、また近づいてはためつすがめつ[#「ためつすがめつ」に傍点]したのちに、ウムウムとうなずくと、
「できましたよ、師匠。じゃアさっそく一斗桝のほうへとりかかります」
奥の間のほうへ声をかけて、そのまんま帰っていった。
「マー、餅屋は餅屋。さすがにうまいもンだわねエ」
初めて圓太郎から男一人前の仕事を見せてもらえたそのうれしさ。大きな擂鉢《すりばち》とげて[#「げて」に傍点]がかった丼を三つ四つ、急いで持って出てきた彼女は次々に棚へ載せてみた。と、その途端にだった。ガクンとひとつねじがゆるんだように棚がかしいで、ガラガラガタンと落ちてしまった。擂鉢以外の瀬戸物がみんな板の間でコナゴナに砕けて、あたり一面にちらばった。
アラッ。無惨な丼の破片やだらしなく落ッこちているまんまの棚板をあきれてジーッと見つめていたお八重は、やがてのことにソッと呟いた。
いよいよあの人、高座の他はなにをさせてもみんな駄目なンだわ。だからチャンとしッかりしたお神さんがついていてあげなきゃ、一生出世しないと思うわ。そのしッかりしたお神さんに私ならなってあげられるのにと考えて、お八重は思わずドキンとした。こんな自分の心のなかを、もしや誰かに覗かれてはしないだろうか。ソッと辺りを見廻してみたが、もちろん、誰のいるわけもなかった。
急いで落ちている棚を取り上げた。それからお釜の蓋の上に置かれてあった鉄槌を手にした。
トン。トン。トン。トン。さっき[#「さっき」に傍点]のところへ持ってゆき、両端へ釘を打ち込むと、難なく元通りに棚は吊られた。続いて擂鉢と別の丼を思い切って五つ六つ載せてみた。やっぱり棚は落ちようとせず、載せただけの瀬戸物がチャーンとして載せられていた。
「ウフッ」
さすがにお八重はおかしくなった。丼の破片を袂《たもと》を広げた上へ集めながら、クックッ彼女は笑い出した。
一斗桝とは――
トヽヽヽヽヽヽ、トン。
トヽヽヽヽヽヽ、トヽン。
その頃、圓太郎は新福富町の四畳半ひと間きりしかない自分の部屋で、豆絞りの手拭で鉢巻をし、片肌ぬぎで鉄槌を振りまわしていた。一升桝が七十四個、行儀よく前へ並べられていた。ひと口に七十四個というが、七十四個の一升桝はなかなかの壮観であり偉観だった。
一斗桝ってのは一升桝の十倍だ。
理屈ではそうとわかっていても、実地に並べてみないことにはトックリと肯けるものでない。そこで圓太郎は心やすい荒物屋へ行って借賃を払い、これだけ借りてきたのだった。
借りてきた一升桝を十個ずつ、ズラリと彼は四方へ並べてみた。
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