なんだろうあの騒ぎは。まさかお八重ちゃんと俺が夫婦になるからって祝ってくれるワケじゃあるめえ。
「馬車だ、馬車だ」
「乗合馬車だ」
多くの人たちの声々が流れてきた。
「圓太郎。乗合馬車が通るらしいよ。私は一昨日煉瓦地で見た。お前さんはまたなにかの参考になるだろうから、サア早く茅町《かやちょう》の通りへ行ってごらん」
思いやり深げに圓朝は言った。トップリ暮れつくした師走の夜の屋根と屋根との間に覗かれる表通りの明るみを鳥瞰《みお》ろしながら。
開通万歳
圓太郎がギッチリ二列三列に詰まった人波のうしろへ立ったとき、ドッとまた浅草見附のほうでどよめきの声が起こり、プープープーと異国的な喇叭《らっぱ》の音色が、憂々たる馬車の響きと一緒に流れてきた。
思わずグビリと圓太郎は固唾《かたず》を呑んだ。冷たい夜風のなかから、甘い匂わしい黒髪の匂いがスーイ[#「スーイ」に傍点]と鼻を掠めてきた。
オヤ、傍らを見ると、
「……お八重ちゃん」
夜目にもクッキリ白い顔が、輪郭の美しさを見せて、大輪の花のように開いていた。
「アラ」
あわてて彼女はお辞儀《じぎ》をしたが、それッきりうつむいてしまった。いつもの勝気にも似ず、今夜は圓太郎の言葉も耳に入らないほどワクワクしている様子だった。
プープープププー。このとき喇叭の響きはいっそう近づいてきて、ハイカラな乗合馬車がお客様を巨体へいっぱい鈴鳴りにして走ってきた。スコッチ服の馭者《ぎょしゃ》がキチンと馭者台へ座ってときどき思い出したように片手の喇叭を吹き鳴らしながら、往来を横切ろうとする老人などに、
「お婆さん、オイ危いよ」
と声高に叱りつけた。いかにも文明であり、開化であった。人々は感激し、熱狂した。興奮のルツボのなかでやたらに喇叭が鳴りつづけていた。
「立派だこと」
お八重は切れ長の目を潤ませていた。
「素晴らしい、ほんとにこいつア」
いつかピッタリお八重のほうへ肩を摺りつけるようにしながら圓太郎も、満足そうにつぶやいた。なんとも言えない幸福感でいっぱいだった。背が三寸ほどひと晩のうちにスクスクと伸びたような気がされた。と次の瞬間、彼、圓太郎の素晴らしい芸術欲がモクモク頭をもちあげてきた。
それは文字どおりの日進月歩してゆく開化日本の象徴のようなこの絢やかな乗合馬車の姿を目に見てだった。見るからに急進国の素晴
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