頭、大工の棟梁、といったような住人が多く、格子のうちに御神燈が下っていたり、土間の障子を開けた所がすぐに茶の間で、神棚、長火鉢、茶箪笥といった小道具よろしく、夫婦者が研き込んだ銅の銅壺でお燗をしながら小鍋立をしていたりしたのを見た記憶があるが(下略)」
 もうこれによって私のいわんとするお長屋の何たるかも改めてくだくだと説明には及ぶまい。ついでにあなた方は、
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焼海苔や米に奢りし裏長屋  龍雨
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 という句の意をおもいだして下されば、もうそれでいいのである。今や時局下の東京へもトントントンカラリの隣組は設置されたが、隣が青森県人で向こうが佐賀県人、まん中に茨城県人がという合壁の寄合長屋ではまだまだこの東京というところの辛うじて喘ぎのこっている伝統都市美の保存、もしくはすでに絶え果てた佳き風習風俗の再興を企てよう精神文化的な心組みまでには至るべくもない。大東亜共栄圏確立、五十年百年の後には再び圓右が宗悦の一節に聴いたような和気|藹々《あいあい》たる洗練東京の「隣組」が新粧されていようことをせめても私は死後に望んで止まないのみである。
 ――やがて深見新左衛門邸へは一年目の十二月二十日がめぐってくる。いやが上にも荒涼たる邸の中の、そこには奥方がひどいさしこみ[#「さしこみ」に傍点]で苦しんでいる。呼び入れた汚い按摩が揉みだすと、奥方の痛みはいよいよ烈しくなる。で新左衛門が自分のを揉ませてみると、なるほど、痛い。思わず痛いと殿様が呼ぶと「どうして貴方、まだ手の先で揉むのでございますから痛いといってもたかが知れておりますが、貴方のお脇差でこの左の肩から乳の処までこう斬り下げられました時の苦しみは」按摩がこういう。ハテナと見やると「恨めしそうに見えぬ眼を斑に開いて、こう乗り出した」盲人宗悦のすがたである。「己れ参ったか」、すぐ新左衛門は斬り付ける。ワッと相手は打ち倒れた。でも――気が付いてみると血まみれて倒れているは、なんの現在の奥方だった。ところでいま引用した「どうして貴方」以下は圓朝速記本に拠るものであるが、圓右の場合はもっと芝居めかして「まだ貴方、これほどの痛みじゃござりません、ちょうど去年の今月今夜、肩先かけて、乳の下まで」こういっていた。あるいは圓朝自身も芝居噺のときはこういう風に演っていたかもしれない。そのとき「エ」と殿様が振り返ると、こうダラリと両手を下げ、スーッと灰いろに尾を曳いてすくんでいる宗悦のすがた、圓右の姿はなくてそこにションボリ青ざめた宗悦の霊のみが物凄い半眼を見ひらいていた。生涯、忘れられないだろう。
 ところで圓朝は深見家の改易を座光寺源三郎が女太夫おこよを妻として召捕られたかの「旗本五人男」事件に関連させ、そのことによって巧みにこの新左衛門を惨死せしめている。即ち源三郎お咎めののち新左衛門は座光寺邸の宅番を仰せつかっていると、例の売卜者梶井主膳が「同類を集めて駕籠を釣らせ、抜身の槍で押し寄せて、おこよ、源三郎を連れていこう」とするため、抜き合わせて斬死してしまうとこういうのである。それにしても圓朝は「旗本五人男」という講釈の上に、かなりの関心を持っていたものと見ていい。なぜならかの「月に諷う荻江一節」、荻江露友を扱った物語の挿話でも同じく「五人男」中の此村大吉を登場させこの大吉の姿をモデルに中村仲蔵が例の五段目の定九郎をおもいついた一齣を挟んでいるからである。今日、圓馬、下って文治にのこる一席物の人情噺「仲蔵」は、これを独立させたものである。
 その結果深見の家は改易となり、それに先立ち兄新五郎はつとに出奔しているがまだ幼かった弟新吉のほうは門番勘蔵に育てられ、年ごろになっても勘蔵を真実の伯父とおもって暮らしている。勘蔵は下谷大門町に烟草屋を、新吉は始め貸本屋へ奉公していたが、のち掴煙草《つかみたばこ》を風呂敷に包みほうぼう売り歩いている。かくて根津七軒町の富本の師匠|豊志賀《とよしが》と相知るのである(これが宗悦の娘であることはすでに述べた)。三十九でまだ男を知らなかった豊志賀が、僅か二十一のそれも仇同士の新吉と悪縁を結び、同棲する。はじめのうちは何事もなかったが、そのうち稽古にきているお久という愛くるしい娘と新吉の上を疑ってクヨクヨしだしたのが始まりで、「眼の下ヘポツリと訝《おか》しな腫物が出来て、その腫物が段々腫れ上がってくると、紫色に少し赤味がかって、爛れて膿がジクジク出ます、眼は一方は腫れ塞がって、その顔の醜《いや》な事というものは何ともいいようが無い」。
 それが「よる夜中でも、いい塩梅に寝付いたから疲れを休めようと思って、ごろりと寝ようとすると」揺り起しては豊志賀、「私が斯《こ》んな顔で」とか「お前は私が死ぬとねえ」とか怨みつらみのありったけを並
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