取次がありますぜ、奥方、取次がありますよ」と新左衛門自らいい、「どうれ」とやがて奥様がでてくる。まず以て貧寒の旗本屋敷がアリアリと目に見えてくる。つづいて上へ上がった宗悦が「何か足に引掛」ったというと、奥方が「なにね畳がズタズタになってるから」ますます寒々とした邸内の有様が髣髴としてくる。しかもその最中に殿様は酒浸りになっている。そして宗悦にも飲ましてやりたいとて、「エエナニ何か一寸、少しは有ろう[#「少しは有ろう」に白丸傍点]」と奥方にこう呼びかける。「少しは」はこの場合、特に寒い。それには強《したた》かに酔っていながらも新左衛門、相手の督促にきたことは百も承知のそれが気になって気になってたまらないものだから「宗悦よくきた、さァひとつ」「まァ宗悦よくきたな」とふた言目にはこういっている。いかにもこうした場合にこうした人のこうしかいえない言葉でいて、さてイザ書こうとするとき、なかなか書けないところの言葉である。
宗悦が返金を切りだす、もう少し待てと殿様が断る、そのときひと膝乗り出した宗悦が「私はこういう不自由な身体で根津から小日向まで、杖を引っ張って山坂を越してくる[#「山坂を越してくる」に白丸傍点]のでげすから」根津から小石川小日向へまでを「山坂」云々はいかにもそのころの辺陬《へんすう》の感じがあらわれていて、時代風景的におもしろい。我が愛蔵の明治二十年代の東京地図にして現今の小石川区林町あたり、林村と記されている。当時は「山坂」が当然だろう。
とうとう宗悦は新左衛門の一刀にかかって殺されてしまう。新左衛門は家来に命じて屍骸を葛籠《つづら》へ。棄てにやる。もうおもてはしんしんと雪ふっている。葛籠は「根津七軒町の喜連川様のお屋敷の手前に、秋葉の原があって、その原の側」の自身番の前へ棄てられる。翌朝これを慾張りの上方者夫婦が自分の落とし物だといって引き取ってくる。それを同じ長屋に燻《くすぶ》っている悪が二人、夜に入るを待って盗みだす。盗んできた二人は暗中、手触りで葛籠の中をかき廻すのだが、まず油ッ紙へ触ると「模様物や友禅の染物が入ってるから雨が掛かってもいい様に」してあるのだと喜び、冷たくなっている宗悦の顔へ触ると、これは宿下がりの御殿女中の荷物で「御殿の狂言の衣裳の上に坊主の髢《かつら》が載ってるんだ」とまた喜ぶ。ところがさらにキュッと手で押さえ付けるとグニャッと斬り口へ触ったから、ワーッと戸を蹴返して二人は表へ逃げだしてしまう。騒ぎに目をさました長屋の人たちが一人一人、戸のはずれている真っ暗がりの家の中へ入っていって籠の中へ手を突っ込んでは「フワッ、お長屋の衆」と悲鳴を上げる。また次のが入っては「フワッ、お長屋の」を繰り返す。何といってもここは故人圓右の独擅場で、無気味な中にもこみ上げてくる何ともいえないその可笑しさ。そうそうそういえばおもいだす雪ふるその朝、葛籠の棄ててある自身番の前ちかく、しきりに歯を磨いている若者が通りかかった友だちから近所の根津のことだろう、「大分お前このごろ繰り込んでもてるてえじゃねえか」とからかわれ、「ナ何、……そ、それほどじゃねえや」と脂《やに》下がりながらまた楊枝をモグモグさせてしまう塩梅、無類だった(圓朝全集のにはこの仕出し登場していない。圓右独自の演出だろうか)。それにはその時分、この「フワッお長屋の衆」という悲鳴を聞くたんび、私はありし日の江戸下町の生活をおもってひと長屋睦み合っている納まる御代の楽し艸《ぐさ》をいかばかり羨ましくおもい返したことだったろう。そののち私は大阪島の内、または新屋敷あたりの街裏を通るたんび再びこの「宗悦」や「権三と助十」などのお長屋風景をおもいだして、僅かに形骸だけはのこっていた少年時の旧東京の下町住居への仄かなる郷愁をおぼえていたら、思いは同じ谷崎潤一郎氏もチャンとこのほど「初昔」の一節で叙べていられる。
「震災後の東京の下町にはあの両側に長屋の並んだ路次というものが殆ど見当らなくなったが、大阪にはいまだにあれがある。繁華な心斎橋筋を東か西へ這入ったあたりの、わりに静かな街通りを行くと、家並が一軒欠けていて、その庇間《ひあわい》のような所にそういう路次の入口があり、時にはその入口にちょっとした潜り門のようなものが附いていて、奥の長屋に住んでいる人々の表札が並べて掲げてあることもある。またその潜り門の上に二階が附いていて、そこに人が住んでいるらしく、あたかも楼門のようになっているのもある。そういう路次は通り抜けが出来るのもあるが、大概は行き止りになっているのが多く、その袋小路の中は、熱閑の巷にこんな一郭がと思えるようにひっそりとしていて、電車や自動車の響も案外聞こえてこず、いかにも閑静なのである。子供の時分に東京にあった路次には、隠居、妾、お店の番頭、鳶の
前へ
次へ
全21ページ中18ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
正岡 容 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング