ころを見ると、ひどい扮《な》りのため最前屏風のかげへ隠れてしまっていたお神さんがハラハラして長兵衛の袂をしきりに引っ張っているのだろう、こんな僅かの会話の中で、それが見える[#「見える」に傍点]。
旦那はこの者は身寄りのない者ゆえ、あなたのような潔白のお人の子にしてやってくれ、そうして自分とも親類|交《づきあ》いをしてくれといいだす。そこへ「親子兄弟固めの献酬《さかずき》」のお肴が届く、四つ手駕籠で。いつかこの旦那によって佐野槌から引かされてきたお久が「昨日に変る今日の出で立ち、立派になって駕籠」から下り立ったのである(読者よ、旦那に長兵衛の住居の分ったのはけさお久身請に番頭が佐野槌までひと走りしてきたからである)。やがてお久はその男と夫婦になり、麹町六丁目へ暖簾を分けて貰い、文七元結の店を開く。いう迄もないことだが、文七文七というのはこの若者の名前なのである。
それにしても一番終りの場面の、お久かえりぬと聞いて嬉しさのあまり、母親お兼が「オヤお久、帰ったかえといいながら起《た》つと、間が悪いからクルリと廻って屏風の裡へ隠れました」というこの演出も見事である。「間が悪い」の上へひどい扮りをしていますからなどとひと言も断っていないところに注目して貰いたい。そうして涙の中にドーッと笑わせたすぐそのあと「さてこれから文七とお久を夫婦に致し、主人が暖簾を分けて、麹町六丁目へ文七元結の店を開いたというお芽出たいお話でございます」と少しも持って廻らず[#「持って廻らず」に白丸傍点]、トントンと運びめでたくたちまちおしまいにしてしまっている手際よ。
希《ねがわ》くは何とかして私、「文七元結」の圓朝以前のものが知りたい。我が圓朝の、原作のどこへどう細工を施したか、それを知ることによっていっそう圓朝という人の特別の技量の、いよいよ私たちの前に明らかにされるだろうから。
「真景累ヶ淵」
安政六年圓朝二十一歳の作品。しかも素噺転向後の第一声としても絶対高評だったとあれば、一番圓朝にとってもおもいで深き作品だったろうとおもう。事実、宗悦殺しにはじまって甚蔵殺しまで、ことごとくこれ息をも吐かせぬおもしろさである。芸術的な匂いもまた、かなりに高い。但し、その後の花車という角力のでてくる辺りからは全くの筋のための筋で、およそつまらない。なぜそのようにつまらなくなってしまったのか、ということについては最後において述べよう。
まず毎度ながら圓朝の教養は、このまくら[#「まくら」に傍点]においては断見の論という一種の唯物論を見事に覆《くつが》えした釈迦の話から神経病の存在、ひいては幽霊の存在肯定説を簡単に披瀝している。前掲綺堂先生の随筆にも見らるる通り何しろ世を挙げての欧化時代、その真っ只中で怪談噺で一世に覇を唱えた彼圓朝である。まくら[#「まくら」に傍点]においてこのくらいの用意あったは当然のことだろう。またこのくらいの用意あってかからなかったらいくら名人上手といえども最高潮場面に達する以前に心なき文明開化のお客たちの笑殺するところとなってしまっててんで[#「てんで」に傍点]相手になんかされなかっただろう。錦城齋典山は人も知る金襖、世話物の名人であるが、その典山にして晩年は「怪談|小夜衣草紙《さよごろもぞうし》」を読むたびに、左のごときことあったと増田龍雨翁は「木枕語」なる随筆中で憤慨されている。引用してみよう。
「典山はこのごろ何の感違いをしているのか、怪談をよむ前に、怪談の語るべきものでない、そんなことのあるべき筈がない、『開明の今日は、ちと馬鹿馬鹿しいお話で』と、怪談をめちゃめちゃに踏みにじってから、怪談にかかるのだから矛盾もまた甚しい。第一凄味もなにも出ない」云々。
あの典山にして大正から昭和初頭へ。モダン文化のネオン燦然たる前には百年変らざる伝統の世話講談を繰り返している自分に忸怩《じくじ》たるものをおぼえ、思わずこうしたことを呟いてしまったのだろう。けだしモガモボ時代の昭和初年も、鹿鳴館花やかなりし明治開化期も、いずれは同じ米英化一色の時代である。その時に当って我が圓朝は敢然と開化人を膝下に集めて時下薬籠中の怪談のスリルを十二分に説きつくし、典山のほうはこの醜態を曝露している。今日、神田伯龍あたりが意味なく時代に迎合してせっかくのお家芸をば放棄している、思えば無理からぬ次第といえよう。
――さて小石川服部坂の旗本深見新左衛門、盲人宗悦に借りた烏金《からすがね》が返金できずつい斬り棄ててしまう。この宗悦の娘で富本の師匠たる豊志賀《とよしが》が、新左衛門の遺子で十八も年下の新吉と同棲する。こうした因果同士の結合がすなわち、「累ヶ淵」の発端である。
雪|催《もや》いの十二月二十日、宗悦は新左衛門宅へ催促に行くと、「おい誰か
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