べ立てる。「不人情のようだがとてもここには居られない、大門町へ行って伯父と相談をして、いっその事下総羽生村に知っている者があるから、そこへ行ってしまおうか」とある夜、表へでる。パッタリ会ったのが、豊志賀が悶えの種のお久である。ところでこのときの新吉の言葉が巧い。「お久さん何処へ」と訊き、「日野屋へ買物に」とすぐお久が答えているのにもかかわらず、また少し経つと「お久さん何処へ」。また少し話が途切れると「お久さん何処へ」。とうとう不忍の蓮見鮨の二階へ二人上がり込み、差し向かいに坐ってまでもまだ「お久さん何処へ」を繰り返していることである。もうこれだけいっただけで説明にも及ぶまいとおもうが念のために蛇足を添えるならつまりぞっこん[#「ぞっこん」に傍点]と惚れ込んでいるこの自分の心をうっかり話の途切れに相手に悟られてしまってはならない、そうしたその思惑がつい何べんも何べんも「お久さん何処へ」と下らなく同じことばかり訊ねてしまってはいるのである。もうくどいほど繰り返している圓朝のこうした巧さ。でもやっぱりまたしても採り上げないわけにはゆかない巧さなのである。
ところがこのお久も継母に虐められてばかりいる身の、とどいっしょに羽生村まで連れて逃げてくれという話になる。そのときお久「豊志賀さんが野倒死《のたれじに》をしてもお前さん私を連れて行きますか」と念を押すので「本当に連れていきます」、キッパリ答えると「ええ、お前さんという方は」たちまちこれが恐しい豊志賀の形相となって、大写しに。ワッと新吉はお久を突き倒して逃げ出し、大門町の勘蔵のところまで息せき切って駈け込んでくるのである。
と、どうだろう、この伯父のところへ大病人の豊志賀がやってきている、しかも豊志賀はいつもとちがい「お前とは年も違う」から「お前はお前で年頃の女房を持てば、私は妹だと思って月々たくさんは出来ないが、元の様に二両や三両ずつはすける積り」その代り看病だけはしてくれ、またもしものことあらば死水だけは取ってくれと次々に大へん分った話ばかりするのである。こうしおらしくでられると新吉はもちろん、つい私たちまでがホロリこの薄幸な中年女の上に同情の涙をそそがないわけにはゆかなくなってくる。でもこれが圓朝という大魔術師のとんだ幻術であるということ、もうすぐあなた方は心付かれるだろう。
間もなく豊志賀は町駕籠でかえることになる。このときいっしょにかえる新吉が「蝋燭が無けりゃ三ツばかりつないで」というのだが、三つつないだ短い蝋燭の灯の、おもっただけでもトボンと青黄色くうすら寂しい限りではあることよ。
ところが駕籠を担ぎだすとたん、七軒町から駈け付けてくる長屋の者あって、無惨な豊志賀の死を告げる。愕いて駕籠のタレをめくると、中に豊志賀の姿はもうない。煙に捲かれたような顔をしてかえっていく駕籠屋のあと、今更のようにぞっとした新吉と勘蔵とが迎えの者と七軒町へかえっていくと、遺書がある。曰く「この後女房を持てば七人まではきっと取り殺すからそう思え」。
伯父のところへやってきたときの豊志賀があまりにも殊勝らしいことばかりいっているだけ、いっときはあとのこの手紙の、身の毛もよだつもの、おぼえさせられるではないか。すなわち圓朝の幻術といった所以である。
「累ヶ淵」はまだまだ長い。冒頭述べたごとくここから新吉お久を連れて羽生村へ。だがやはり豊志賀の幻影に禍されて、お久を鬼怒川堤で殺してしまう顛末から、次第に新吉、身も心もうらぶれ果てて半やくざ同様となり、破戸漢土手の甚蔵を殺害するまで、決して詰まらない作品とはいえない。描写、会話、運びの巧さにおいても優に十箇所以上を採り上げて示すことができる。しかも「乳房榎」の場合と同じく「累ヶ淵」もまた最も鑑賞すべきは、江戸|歳晩《さいばん》風景の如実なる宗悦殺しに端を発し、凄艶豊志賀の狂い死にまでにあるとこれまた、点を辛くして高唱したい。
挿話(?)として新吉の兄新五郎、同じく因果同士の豊志賀の妹お園とめぐりあい、うっかりお園のいのち[#「のち」に傍点]を終らせてしまうくだりや、のち[#「のち」に傍点]悪事を働き獄門台上にある新五郎の首が新吉の夢枕にあらわれるくだりなど、ここも因果ひといろで塗り潰されていながらしかし決して不自然ではなく運ばれている。もし『圓朝全集』第一巻「真景累ヶ淵」を通読されること以外に親しくその辺の口演に接したいといわれる方あらば、現、蝶花楼馬楽が引き抜き道具立の正本芝居噺によって味わわれたいといっておこう。馬楽は圓朝直門の、今は亡き三遊亭一朝老人から、手をとって教えられているのである。
最後に結末ちかき力士花車登場以後の、大圓朝らしからぬ冗長至極の物語の構成に関しては、あえて私はこういいたい。あまりにも連夜の評判また評判が、自動他
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