であり、芸術的香気もまたすこぶる高いと確信している。もちろんこの後、仇討までの何席かも決して「江島屋」のごとき作意はなく、ことに再び正介が浪江から真与太郎を十二社の滝壺へ投げ込んでこいと脅かされて泣っ面で邸を飛び出し、山の手へかかるとだんだんはつ秋の日が暮れかかる。折柄、賑やかな新宿の騒ぎ唄をよそに頑是《がんぜ》ない子を抱きしめてこの正直一途の爺やがホロリホロリと涙しながら角筈さして、進まぬ足を引き摺っていく辺りは、無韻の詩である。断腸の絵であるともまたいえよう。
 しかも十二社の滝で重信の霊から叱られるくだりは、これまた「牡丹燈籠」のカランコロンのくだりと同じで速記では全然怪奇のほどが分らない。むしろ空々しささえ感じられて今日圓朝あらば正介の夢枕に立たせるとか何とかもう少し現実的な手法を採らせたろうとさえおもわれるほどであるが、しかしこれは前掲「牡丹燈籠」の場合の綺堂先生の随筆を考えるとき、あるいは随分このままで圓朝の舌をとおして聴かされるときは物凄かったものかとおもい直される。なら、にわかにいま軽々とその良否を論ずべきではなかろう。
 重信の霊に叱られ、真与太郎様育てて先生の仇をと前非後悔、健気にも決意した正介がその晩泊った新宿の宿で、夜半乳を求めて泣く真与太郎に、正介当惑していると、泊りあわせのお神さんが乳を恵んでくれる。おかげで真与太郎はすぐ安々と眠ってしまうが、翌朝、重信に南蔵院へ絵を描きにきてと頼みにきた原町の酒屋万屋新兵衛と宿の廊下でパッタリ出会い、いろいろ話し合ってみるといずくんぞしらん昨夜乳を恵んでくれたはこの新兵衛のお神さんであったとは――。ここらの偶然さは少しも不自然でなく、むしろ重信の霊に叱られた直後のこの奇遇だけに、真与太郎のためはや[#「はや」に傍点]この亡魂の加護あるかと、慄然とさえさせられるのである。
 話は前後するが磯貝浪江が重信の家へ入夫しようとするくだりで、何にもしらないで浪江にたのまれ、おきせに再縁をすすめにくる地紙売の竹六が、磯貝様はどうだと訊くと「まさかあのお人を」とおきせが否定するのでオヤこの分なら脈があるなと心でおもう言葉も巧い。ほんのこれだけの会話の中にじつにいろいろさまざまの複雑な意味を持たせている圓朝に、よほど私たちは学ばなければならないとおもう。
 一方故郷の武州赤塚村へ立ち戻った正介は、細々と真与太郎育てているのであるが、最後に真与太郎五歳にして磯貝浪江を討つに至る段取りも心理的にいささかの無理がなく、およそ自然である。
 七月十二日迎え火を焚きながらすっかり聞き分けのない田舎っ子になってしまっている真与太郎へ、「お前も今年は五つだから、少しは物心もつく時分だが」とまことの父は自分でなく、菱川重信という立派なお人で、どうかそのお父さまの仇磯貝浪江を討って下されと涙ながらに正介が説いて聞かせている。「ええか、今にその浪江という奴に出会《でっくわ》したら、この刀で横腹《よこっぱら》抉って父さまの仇ァ討たんければなんねえ、ええか、(中略)こんなに錆びているだが、このほうが一生懸命ならこれだって怨は返せる、己、助太刀するから親の敵を、ええか、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」という風にである。
 間髪を容れず、そこへ当の浪江が入ってくる(赤塚在に二人がいると聞き、すでにおきせは狂死した後だし、いっそ今のうち二人を討ち果たして一切の禍根を除こうと決心してやってきたからである)。そうして抜く手も見せず斬り付けてくると「葺下しの茅葺屋根ゆえ内法《うちのり》が低いから、切先を鴨居へ一寸ばかり切り込んでがちり」。
 正介は「坊ちゃまそら敵だッ」と仏壇の陶器《せともの》の香炉を打ち付ける、灰が浪江の両眼に入る、ここぞと正介は「樫の木の心張棒で滅多打ちに腰の番《つがい》」を三つ四つ喰わした。「不思議やこの時まだ五歳の真与太郎でございますが、さながら後で誰かが手を持ち添えてくれますように、例の錆刀を持ちまして」浪江の横腹をひと抉り抉ったのである。
 いまのいままで迎い火焚きながら物語っていたというところだけに、五つの真与太郎にしても錆刀で相手に斬り付けていくことが何だか自然におもわれるではないか。いわんや「後で誰かが手を持ち添えて」くれるようであるというにおいてや。
 田舎家で天井が低く、浪江の刀が鴨居へ。そこへ仏壇[#「仏壇」に白丸傍点]の香炉をぶつけたというのもいかにも亡魂の指図らしく、そのあと樫の木の心張棒という、万事万端無理のない小道具や段取りがいかにこのひとつ間違ったらあり得べからざるとおもわせるような奇蹟をほんとうのものとしているかよ、である。
 極めて点の辛い立場から私は重信殺し前後のみを「怪談乳房榎」中の採るべき箇所といったけれど、最後に至るまでの各章も決して「江島屋」のような破綻は毫
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