持ってきておいて、「皆様に御相談でござりますが、可愛い我が子を刺し殺そうとされました心持はどんなでござりましょうか、女というものは男と違いまして、気の優しいもので、こういう時にはいう事を聞きましょうか、それとも聞きませんものでしょうか、おきせの返事は明日申し上げましょう」云々。これでおきせの罪に至るの経路もまともに聞きまこと同情に値するものであることがよくよく聴衆に肯かれるし、心から圓朝またこの弱いおんなへ温かい涙をふりそそいでやっているではないか。しかもそうしておいて、「おきせの返事は明日」とヒョイと肩を透かしてスーッと高座を下りていってしまったのである。しばし寄席、ドーッと感嘆と興奮のどよめき[#「どよめき」に傍点]が湧き起って、鳴りも止まなかったろう光景が察するに難しくない。絶技である、まことに。
 いよいよ悪計を胸に高田南蔵院を訪れる磯貝浪江には、「天地金の平骨の扇へ何か画が書いてある」ものを圓朝使わせている。この扇ひとつでも何かその人らしい色悪《いろあく》らしい姿が浮かび上がってくるから妙である。さらに「先生は下戸でいらっしゃるから、金玉糖を詰めて腐らん様に致して」持ってきた浪江である。金玉糖で季節を、またそれを好む重信の人となりを、併せて重信をしていよいよ磯貝を信用しないではおかないような口吻を――またしてもまた圓朝は一石三鳥の実をものの見事に挙げている。ことに「詰めて腐らん様に」とは何たる誠意ある言葉だろう。重信ならでも容易に信頼したくなるではないか、これは。
 だからこそ浪江にいわれ、すぐに正介をいっしょにそこまでだしてもやるのである。すると牛込馬場下の小料理屋へ連れてきて浪江はふんだん[#「ふんだん」に傍点]に正介に飲ませる。揚句に人のいい正介へ言葉巧みに伯父甥になろうと持ちかけ、有無をいわさずその誓約をさせてしまう。余談に入るが、そのころの牛込馬場下はのて[#「のて」に傍点]の片田舎としてはかなり繁華な一部落であったらしい。かの堀部安兵衛武庸も八丁堀の浪宅から高田馬場へ駈け付けの途次、この馬場下の何とやらいう酒屋で兜酒を極めたとて震災前までその桝がのこっていたし、もちろん、これは大眉唾としても、少なくともこの安兵衛の講釈が創作された時代の馬場下に兜酒極められる家が存在していたのであることだけはハッキリといえよう。夏目漱石の『硝子戸の中』によれば漱石の幼年時代、貧弱極まるものではあったらしいが、この馬場下には講釈場のあったことすら描かれている。もって、知られよ。
 浪江、伯父甥の誓約をさせると、早速に重信殺しの手助けをせよと切りだす。そうして聞き入れなければ一刀両断だと猛り立つ。いのちには換えられず、いやいや[#「いやいや」に傍点]正介承諾するが、さてこのあと南蔵院へ戻り、黄昏、落合の蛍見物へ連れだすまでしじゅう正介が口の中で念仏を唱えたり、いうことがしどろもどろになったりするところ、いかにも正介というものの性情あらわれていていい。例えば蛍見物にいっていて重信から酒を飲めとすすめられ「貴方もう[#「もう」に傍点]たくさん上れ、もう上り仕舞だから」といったり、九年の間「やれこれいって下すった事を考えると、私い涙が零《こぼ》れてなんねえ」といったり、またしても「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」といいだしたりする類いに、である。
 トド重信は殺される。かねての手筈通り、正介は南蔵院まで駈け戻って、いま先生が狼藉者と斬り合っているとこう伝える。と意外にも寺僧たちは一笑にふしてしまって、つとに先生はかえって本堂においでですという。ギョッとした正介がこわごわ所化《しょけ》の後から従いていき、本堂を覗いてみると、紛れもなく重信はいま落款を書きおわり、「筆を傍へ置き、印をうんと力を入れて押した様子」しかも「正介、何を覗く」とこう叱るのである。思わずアッと正介が倒れると、とたんにかんかん点いていた蝋燭の灯がサーッと消え、この物音に驚いて寺僧たちが駈けつけたとき、はや重信の姿はそこにない。
「昨日まで書き残して出来ずにおった雌龍の右の手が見事に書き上がって、然も落款まで据わって、まだまだ生々と致して印の朱肉も乾かず龍の画も隈取の墨が手につくように濡れて居りますのは、正しく今書いたのに違いありません」
 ――なんとこのスリルは鮮やかではないか。しかも殺されたばかりの重信がのこりの絵を仕上げにかえってきているところいかにも芸道の士の幽魂らしく、さらにその落款の「朱肉も乾かず」というへんな生々とした実感さ。私はここを圓朝全怪談中の圧巻だとさえおもうのである(ことにこの場面は速記で読んでもぞくぞくと迫ってくる肌寒さがある)。
 さて私は「乳房榎」もここまで――いやことに馬場下の小料理屋から、蛍狩の殺し、そうしてこの怪奇までが最高潮
前へ 次へ
全21ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
正岡 容 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング