の原話とは別な真実感を漂わすなど、作家としてもよほどの苦労人といわねばなるまい。
 勇齋に死相ありと脅された新三郎は新幡随院の良石和尚にあい、金無垢の観世音と両宝陀羅尼経とを貰う。そのときに和尚が「この経は妙月長者という人が、貧乏人に金を施して悪い病の流行る時に救ってやりたいと思ったが、宝がないから仏の力をもって金を貸してくれろといった所が、釈迦がそれは誠に心懸の尊い事じゃといって貸したのが、すなわちこのお経じゃ」と陀羅尼経の所縁を説き明かしていることもへんにありがたそうな実感がでていて結構である。この種の技巧の例は今後もいろいろの作品をつうじて屡々《しばしば》でてくるが、ことに圓朝はこうした教養というか用意というか、その点が秀れている。ありがたい観音様に守られ、経文に守られ、軒々へもお札《ふだ》を貼りめぐらしてしまったため、その晩、お露の霊は新三郎のところへ入ることができない。恋しさに耐え兼ねて、よよと闇中に泣きくずれる。すなわちそこがその一席の切り場であって「もしや裏口から這入れないものでもありますまい、入らっしゃいと手を取って裏口へ廻ったが矢張這入られません」と速記はここで次章へと移っているのであるが、かつて先代林家正蔵(七代目)は圓朝門下の大才圓喬のこのくだりのあまりにも水際立っていた点を極力私にたたえて聞かせ、当時の圓喬の演出は「矢張り這入れません」とのみポツンと切ってしまわず、怨めしそうにお露が軒端を見上げてまたもや泣いじゃくるのをお米がなだめてもういっぺん横手ヘツーッと……。この「ツーッと」を右手で形をしながら、「ツー」くらいまでいいかけて、
「……いやあまりお長くなりますから」
 と小声で世話に砕けて下りていくといった風だった由である。たしかにこの演出のほうが心憎いほど我々に水尾曳いてのこる余韻がある。或いはのち[#「のち」に傍点]には圓朝自身この演出を工夫し、それを弟子たる圓喬がつたえたものかもしれない。
 妾のお国は孝助の存在を憎むのあまり、源次郎の邸の若党で「鼻歌でデロレンなどを唄っている愚者《おろかもの》」相助をおだてて危害を加えさせようとするのであるが、この相助の用語がおよそ特異でいかにも愚鈍に感じられるからおもしろい。曰く「憎《にく》こい[#「こい」に白丸傍点]奴でございます、(中略)何時私が御主人の頭を打《にや》しました(中略)これははや金子《けんす》まで」などというのであるが、にっこい[#「にっこい」に傍点]とか、ごじいます[#「ごじいます」に傍点]とか、にやす[#「にやす」に傍点]とか、けんす[#「けんす」に傍点]とか、聞くだに鈍な感じが深い。圓朝門下には俊才も少なくなかったが、同時にぽん太とかコマルとかへん朝とか愚かを以て鳴る名物男も存在していた。あるいはこれらの誰かがモデルだったかもしれない。
 お国の策動はいよいよ烈しくて今度は自分の屋敷の若党源助をおだてて、孝助を陥《おと》し入れようとする。この源助の性格もまたよく描かれている。なぜならおだてられて源助、いろいろ孝助を打擲するくせに、何もかも承知している平左衛門がワザと後刻孝助を手討にするというと、「孝助お詫びを願え」、また少し経つと「お詫びを願わないか」しきりにこういって孝助をさとしているからである。なんと正直一途の性格であることが、ハッキリと分るだろう。この源助などは今後さして活躍もせず、いわば仕出し同様の存在なのであるが、それにもチャンとこうした性格を与えている。かつての私の話術の師たる、現三遊亭圓馬(三代目)は大師匠の手記を見ると、全く登場しない女中の年齢までかいてあるのに瞠目したと語っていたが、この源助の場合など考えるとき、たしかにそうしたこともあり得たろうとおもわないわけにはゆかない。
 かくて第二次のお国の計画も画餅《がへい》に帰したが、平左衛門大難の日は刻々と迫ってくる。しかもその前夜、平左衛門は、姦夫源次郎の姿に身をやつして、ワザと孝助の槍先にかかってしまうのである。はじめにいったとおりしょせんが自分は孝助の親を斬って棄てた仇の身の、我から討たれてやるつもりだったのである。主家のため憎い源次郎を討たむとして主人を手負いにしてしまった孝助の驚き、仇同士と聞き知っての愁嘆、まことに人生の一大悲劇であるが、こうしたところは残念ながら速記ではほんとうの「味」は分らない。てんで[#「てんで」に傍点]さし迫った演者の呼吸が感じられてこないからである。ただ孝助は今宵こそ源次郎を突き殺して自分も切腹してしまおうとおもっているから「泰平の御代とは申しながら、狼藉ものでも入る」といけないとて槍を研ぎはじめる。それを平左衛門は「憎い奴を突き殺す時は錆槍で突いたほうが、先の奴が痛いから」いい心持だと止め、それもそうだと孝助は止めてしまう。あに
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