図らんやその「先の奴が痛い」錆槍で現在主人の横腹をブスとえぐってしまったのである。結果として孝助の心の苦悶は倍加されてくるし、しかもいま何もかも相分ってしまってみると昼間主人のいった「先の奴が痛い」こそおよそ、深刻悲痛である。錆槍ひとつがじつに二重三重いろいろさまざまに心理的な働きをしているといわねばならない。
慟哭する孝助を叱って手負いの主人は養子先の相川家へ逃がしてやる、そのとき他日、お国源次郎を我が仇として討ち果たしてくれと遺言する。心ならずも孝助は立ち退いていって粗忽者《そこつもの》の養父相川新五兵衛に逐一を物語る。ここでも依然粗忽者の性格は言葉のはしばしに遺憾なく、表わされているが、人違いして飯島を突いたと聞いて「なぜ源次郎と声を掛けて突かないのだ」というところは岡本綺堂先生の『寄席と芝居と』に拠ると「息もつけぬ程に面白い」よしである。
「文字に書けば唯一句であるが、その一句のうちに、一方には一大事|出来《しゅったい》に驚き一方には孝助の不注意を責め、また一方には孝助を愛しているという、三様の意味がはっきりと表れて、新五兵衛という老武士の風貌を躍如たらしめる所など、その息の巧さ、今も私の耳に残っている。團十郎もうまい、菊五郎も巧い。而も俳優はその人らしい扮装をして、その場らしい舞台に立って演じるのであるが、圓朝は単に扇一本を以て、その情景をこれほどに活動させるのであるから、実に話術の妙を竭《つく》したものといってよい。名人は畏るべきである」
と記されてあるをもって知れよう。それにしても前述の愁嘆場と同じくこうした呼吸をもって表現するところは速記では全く味わい知るべくもない。この上もなく遺憾である。
その代り仇討発足とのくだりでこれまた新五兵衛の孝助への烈しい愛情のあらわれであるが「私が細い金を選って、襦袢の中へ縫い込んで置く積りだから、肌身離さず身に著《つ》けて置きなさい」などは速記においても惜しみなく圓朝の会話の巧さをつたえているといえよう。その晩のおとく孝助の新枕《にいまくら》を「玉椿八千代までと思い思った夫婦中、初めての語らい、誠にお目出たいお話でございます」云々とまことにいやらしくなく、簡潔の中に一味清純な艶かしさをたたえていて凡手でない。
かかるひまに萩原新三郎は一夜良石和尚から借りてきた金無垢の仏像を何者にか盗み去られて変死していた、愕いた勇齋が一応伴蔵に疑いをかけ、天眼鏡で伴蔵を見ようとするのはいかにも易者らしくて愉快である。昨夏、歌舞伎座で六代目が上演した半七捕物帳の「河豚太鼓」は宇野信夫君の脚色であるが、さすがに宇野君も六代目の易者をして河豚にやられて悶死する一刹那、「死ぬか活きるか、占ってやれ」と自ら苦しみながら筮竹を握って自分自身の運命を占うの可笑し味があった。手練の作家の技巧というもの、ついに究極においては一致するものといえよう。この顛末を勇齋が良石上人へ報せにゆくと、「側に悪い奴が附いていて、また萩原も免れられない悪因縁で」とつとに上人見破っているばかりでなく、盗まれた仏像も「来年八月には屹度《きっと》出る」などと喝破しているところ、いかにも神秘的な存在で羅曼《ロマン》的な興味が深い。
「伴蔵は悪事の露顕を恐れ、女房おみねと栗橋へ引越し、幽霊から貰った百両」で荒物屋を始める。これがトントン拍子に当る。いう目がでるので奢りに長じて伴蔵は、だんだん茶屋酒に親しむようになる。はしなくも土地の料理屋で、女中となっていた飯島の妾お国とわりない仲となる。どうしてお国はこんなところでこんな茶屋奉公なんかしているのだろう。話はこうだ。あの晩、手負いの平左衛門は孝助を逃がしてやったのち、姦夫姦婦のところへ斬り込んでいった、そして源次郎に手は負わせたものの、トド彼らのため、滅多斬りに斬殺されてしまった。で、有金をさらって逃げた二人は、ひとたびお国の郷里越後へ走ったが実家絶えてなく、拠所《よんどころ》なく栗橋まで引き返してきたとき、飯島に突かれた傷が痛みだし源次郎はドッと寝込んでしまった。ついにその日に困ってお国は茶屋奉公に。かくて伴蔵と結ばれたというわけなのである。でも、結ばれたのは単にお国と伴蔵ばかりでない、十七席を重ねてきたAB二つの因縁因果物語もまたこの二人の結ばれによってはじめて一心同体と結ばれたのである。
その結果、伴蔵の女房おみねは夫の不身持《ふみもち》を怒って、果ては嫉妬半分お前が「萩原様を殺して海音如来のお像を盗み取って、清水の花壇の中へ埋めて置いたじゃないか」と声高に罵るようになる。ここにおいて我々はお像を盗み取ったばかりでなく彼、伴蔵、日頃、厄介になっている新三郎を殺害したことを初めて知って事の意外に驚くのである。同時に今にしてお露お米にお札を貼がしてと頼まれたとき、お前様方を中へ
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