々の士分といえども十両以上[#「十両以上」に白丸傍点]の大金は決して肌にしてはいなかった。常に十両金さえ所持していれば、ひとたび君公の命下ったとき我が家へ戻らずして彼らは、蝦夷松前の果てまでもそのまま行かれた。即ち十両盗めば首の笠台の飛んだ所以《ゆえん》、「どうして九両三分二朱」の名洒落ある所以である。
が、その綺堂先生も言われている(名人錦城齋典山もまた同様のことをいったそうだ)。
「あれといい、これといい、今宵に迫る二百両[#「二百両」に白丸傍点]、こりゃ如何《どう》したらよかろうぞえ」
と、きて、はじめて、人生は芝居になる。絵になる。詩になる。すなわち現実の真でなく、芸術の上の真として、大方の胸へ囁き、ひびくものがある。いくらそれが決定的事実であるとしても、
「今宵に迫る十三両と三分[#「十三両と三分」に白丸傍点]」
ではね、と……。
百両の金貰って長兵衛、佐野槌あとに吾妻橋へ。ここで身投げを助けるのであるが、この身投げが「身投げじゃねえか」と訊かれたとき「なに宜しゅうございます」という。くどく事情を訊ねられると、決心した上のことゆえ「お構いなく往らしって下さいまし」という。ほんとうに長兵衛との長いやりとりの間「なに宜しゅうございます」と「往らして下さいまし」とは何べんこの男の口から繰り返されることだろう。すでに死というものを覚悟し切ってしまっている姿と、みすぼらしい長兵衛の様子を見てこの人に何すがれるものかという軽蔑の心持とがまざまざそこから感じとられて、巧緻である。また長兵衛自身にしても場合が場合、助けたいのは山々であるが、さりとて他ならぬ金、遣わないですめばそれに越したことはないので、
「己もなくっちゃならねえ金だが、これをお前に……だが、何うか死なねえようにしてくんな、え、おう」
とこういいもするのである。このいい方もまたなかなか心理的でいいとおもう。最近谷崎潤一郎氏は「きのうきょう」の中で里見|※[#「弓+享」、第3水準1−84−22]《とん》氏の会話の妙をたたえて、「小説界の圓朝」といわれているが圓朝の巧さはまことこうしたところに尽きているとおもう。では「死なないように致しますから、お構いなく往らしって下さいまし」といい、安心して長兵衛が行こうとすると「また飛び込もうとする」、それを留めて戒め、また行こうとすると、また飛び込もうとする、こ
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