下町歳事記
正岡容
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)撥橋《はねばし》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)南蛮|鴃舌《げきぜつ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「魚+弗」、第3水準1−94−37]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)見る/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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時雨・雪・三味線堀
亡くなられた泉鏡花先生のお作の中でも、「註文帳」は当然代表作の一つに数へていいものだらう。殊に雪もやひ[#「もやひ」に傍点]の日の鏡研ぎ五助の家のただずまひ[#「ただずまひ」に傍点]、雪明りの夜の吉原の撥橋《はねばし》、おなじ雪の夜更けの紅梅屋敷――情が、姿が、廓の景色が、マザマザ手に取るやうに浮かんで来てたゞたゞ敬服のほかはない。
が、あの五助の家のくだりであぐねてゐた空から白いものがチラつきだし、軈て「唯一白」の大雪となる。あの大雪の有様を、
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「折から颯と渡つた風は、はじめ最も低く地上をすつて、雪の上面を撫でて恰も篩をかけたやう、一様に平にならして、人の歩行《ある》いた路ともなく、夜の色さへ埋み消したが、見る/\垣を桓《だわ》り軒を吹き廂を掠め、梢を鳴らし、一陣忽ち虚蒼《あおぞら》に拡がつて、ざつと云ふ音烈しく、丸雪は小雅を誘つて、八方十面降り乱れて、静々と落ちて来た」
[#ここで字下げ終わり]
とえがいてゐられるが、此は断じて東京の大雪でない。勿論、先生も「紅梅の咲く頃なれば、斯くまでの雪の状」は「都の然も如月の末にあるべき現象とも覚え」ないと特に断つてはゐられるが、
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二天門仁王門大雪となりにけり
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[#地から2字上げ]茶泉
と云つた句に見られるやうな、あくまでサラリとした旧東京の大雪でない。江戸このかたの大雪の景色でない。つまり広重でない。清親でない。これは先生の御郷里たる加賀金沢の古びた城下にしん/\とふる雪である。犀川べりに浅野川の磧の石にふり積む雪の姿である。も一つ云はせて貰ふなら魚眠洞随筆のゴリ料理をたべさせる家の軒端をドサリツと滑つて落ちる夜の深雪の音であらう。
所で、この方は雪ではないが、岡本綺堂先生の『半七捕物帳』の「鷹のゆくへ」の中の雑司ヶ谷の落葉枯葉にふる時雨は、
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「村はづれまで来かかると、時雨がたうとうざつと降つて来たので、半七は手拭をかぶりながら早足に急いで来ると……」
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とあり、そこで雨宿りに飛込んだ蕎麦屋で半七がいろいろの手がかりを掴んで表へ出ると、
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「時雨雲はもう通り過ぎてしまつたらしく、初冬の弱い日のひかりが路傍の藁屋根をうす明るく照して来た」
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とこんな風に、サラツと降つてカラツとあがる、いかにも思ひきりのいい江戸のしぐれのふらせ方をしてゐられる。此が北国のしぐれだつたらとてもこんな安直な塩梅式にはゆかないだらう。雪としぐれとはちがふけれど、くどくも云ふとほり所詮が東京の大雪は、どんな大雪でもこのしぐれとおなじ宵越の銭を持たない大雪である。
とは云ふものの、同じ泉先生の「三味線堀」には明治末年から大正初年へかけての佐竹一帯の幽暗な街の姿が実によくえがき出されてゐる。馬場孤蝶翁もかいてゐられたがほんとに私たちの子供のじぶんの佐竹には石垣があり、石蕗が咲き、蟇がなき、ああしたさびしい景色の家がザラに見られた。
同じことが竹久夢二画伯の版画の上にも云へる。日本橋堀留の水の青さ、一石橋の甃石の日の光りは岡山生れでありながら東京錦絵風景を好んで愛された画伯の筆によくよく[#「よくよく」に傍点]写されてゐるけれど、近ごろ再版されてゐる三味線堀の図は掘割の水の群青の一刷毛でえがき出されてゐるため前記のかんじが全くでてゐない。どうしてもあすこの水のいろは薄墨色でベトツとなすつてもらはなければほんとでないのだ、高篤三所蔵「風俗画報」の「浅草名所図絵」の挿絵家山本松谷は流石に心得たもので三味線堀の図に配するに捕鼠器にかかつた鼠をこの堀に棄てに行く町娘並びにその背後から興がり噺し立てて行く町の悪童どもを描いてゐる。捕鼠器の中の鼠は未だ生きて跳ねてゐる。それがいか許りこの三味線堀の薄濁つた感じにピタリと来てゐることか。この点私たち東京育ちのものは巧拙に関らず、東京中の大ていの昔の町、昔の風情ならえがけるつもりだけれど、地方からでて来られた芸術家は、あの年代の人たちでも、尚且かうしたことがあるものと見える。同様に我々が他の一都市をえがいても当然かうした失敗は繰返すことにちがひあるまい。
[#地から1字上げ](昭和十四年春)
広重の家
首尾の松
首尾の松のすがたをおぼえてゐる。私はほんの子供ごころに。
いま、どこかへ退けてしまつた蔵前高工の真後で、大川とすれ/\のところに生えてゐる一ともとの松だつた。ひよろ/\と細い枝ぶりだつたやうな記憶があるが、それは私の間違ひだらうか。
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大汐に松をかすめて猪牙《ちょき》とほり
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一世に諷はれた天明の狂歌師で、川柳家としては牛込蓬莱連の盟主だつた朱楽菅江にはこの川柳があり、近世では伊藤松宇に、
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しぐるゝや嬉しの森に首尾の松
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がある。ほんとうに四季をとほして、しぐれ、粉雪、さゞめ雪、さうしたはつ冬の、鈍い、どんよりとあぐねつくしたしゞまの中に置いてみて、一ばん趣深い「松」だつたやう、おもはれてならない。
ところで、私は首めに「ほんの子供ごころに」とうつかりかいてしまつたけれど、よく/\考へてみると、首尾の松は震災の少し前まで枯れ/″\ながら尚且その余齢を喘いでゐたのではなかつたらうか。
大正十年ころの前田雀郎の川柳に、
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首尾の松あたりで本屋また殖やし
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と一銭蒸汽の中の物売をスケッチしたよき句あるを、ふつといまおもひだしたからである。
雀郎には、今日のやうな俳句擬ひの句でなく、まつたう[#「まつたう」に傍点]な、折目正しい、本筋の川柳作品がそのころいくつかあつた。
渡し
なんの渡しと云ふのだらう、その首尾の松の少し先、明治病院の横にほんのさゝやかな渡し場があつた。(富士見の渡しがそれだとのちにをしへられた)
大川のながれから奥深く小さい長方形に屈り入つてゐる一角で、どす青いペンキ塗りの病舎の横をギイと舟が岸へ着くと、もうそこが代地河岸で、しよつちゆう艶かしい往来があつた。
ある晩春の真昼、横綱の方からこの渡しへ乗つて来たら、病舎の下の石垣に一ぱい蒲公英が叢つてゐた。もう花はなく、稽綿許りが切りに有耶無耶の風に吹かれて病院で捨てたらしい汚物と一しよにフワフワ夕日の水面に飛び散つてゐた。
それが大へん晩春らしくて悲しかつた。
鞍掛橋
鞍掛橋の下をながれる水は、神田川のわかれだらうか、鴨南蛮の黒い細い煙突や大和田のあの店構へを尻目に昔願人坊主が住んでゐたと云はれる橋本町の方へつづいてゐる。ちよつと長崎をおもはせる小さな石造りのめがね橋が、佇むと反対の側の東の方には眺められる。
それにしてもあの壕割の眺めは、よく晴れた六月の真昼が美しい。淀み、濁つた水ことごとくを、桔梗いろの大空がなんとそつくりそのいろに染めつくしてしまふので。
かくて私には私ひとり丈け通用する句がある――。
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はつ夏や鞍掛橋の下の水
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広重の家
大震災まで今川橋の壕割沿ひの石垣には、可成の柘榴が植えられてゐた。それが、はつ夏、燃えるやうな花々を眩しく咲かせた。
きのふとほつてみたら、もう柘榴の木なんか跡形もなく晩夏の夾竹桃が、夕風にしやな/\した枝を真紅な花ぐるみ揺られてゐた。鉄道草が横に一の字を描いたやうに無気味に伸びて、これ丈けは震災前から少しも変らない泥々の水面に、寂しくその影を落してゐた。
昔、柘榴のよく咲いた時分、たしかその木の脇に広重の家があつた、と亡き竹久夢二さんは嘗て私に教へて呉れた。明治開化の、チヤチな東京版画(それ故にこそなつかしい!)を沢山描いた、三代広重の末孫だらうか。それとも間男広重と呼ばれた人の身寄りなのだらうか。間男広重の所縁などいまのうち、伊藤晴雨氏にでも質しておかうとおもひながら、未だ果してゐない。
きのふも私はあの橋の上に立ちどまつて、暫し、ありし日の夢二さんが上をしみ/″\と偲んだ。私は夢二さんにこよなき装幀をかいてもらひながら、その市井随筆集はつひに上梓の運びに至らなかつた。しかも、その私の装幀がきつかけ[#「きつかけ」に傍点]となつて夢二さんの方は、間もなく女流作家と同棲したりしたのに、かんじんの装幀は、惜しや我が流寓のうちに失はれてしまつた。画伯逝いてもう何年になることだらう。
[#ここから2字下げ]
広重の家のうしろの堀割は流れもあへずいまもあるらむ
[#ここで字下げ終わり]
「小夜曲《セレナーデ》」にある夢二さんの歌は、たしかかうだとおぼえてゐる。[#地から1字上げ](昭和十七年夏)
風船あられ
飯蛸、鯖、魴※[#「魚+弗」、第3水準1−94−37]、白魚、さより、蛤、赤貝、栄螺、分葱、京葱、鶯餅、草餅、茶飯、木の芽――と、かたへのものゝ記には三月のあぢがこんな具合に列ねてある。なんだか、字づらをみつめてゐると、わかい日読んだ鏡花つくるの一齣のやうだ。
遠い明治の春のお彼岸――谷中の果ての菩提寺へ年寄に手をひかれていつたら、庫裏からつゞく茶畑にそつて、芝居にありさうな籔畳のかげには、風船あられの工場があつた。――スペンサーが東京開化の碧い空を飛んで以来、お成街道にでき上つた風船あられ屋の工場だと云ふ。
袋一ぱい購つてもらつた風船あられは、淡雪のやうに甘かつた。
――彼岸の陽ざしを追ふころになると、ぼくは「風船あられ」のあはれをおもふ……。
[#地から1字上げ](昭和十一年春)
梅若忌
梅若忌、三月十五日。
その季節のことを書けと云はれて、俄におもひ泛べられて来るかずかずをばメモのやうに書き付けて見る、ほんのなんの、取り止めもなく。
梅若丸の塚のあるお寺は、梅柳山木母寺。誰が命名《なづ》けけん、梅柳山とは。
哀れに美しきこの呼名かな。
川柳点には、
[#ここから2字下げ]
三囲《みめぐり》のあたりからもうぶちのめし
[#ここで字下げ終わり]
また、
[#ここから2字下げ]
梅若は旅陰間《たびかげま》にはいやと云ふ
[#ここで字下げ終わり]
さらにさらに、
[#ここから2字下げ]
梅若は十六日があはれなり
[#ここで字下げ終わり]
よしや涙雨しげくふるとも、大念仏に群衆賑はふ忌日の十五日よりは、ハタと人影絶えつくしたその翌る日の景色こそ、と。思へばこの句意、殊に哀れ。
黙阿弥つくる「隈田川廓白浪」(すみだがはながれのしらなみ)。
「廓」を「ながれ」と訓ませたは、なんとしみじみと懐しき市井の詩人ではあつたことよ。
その芝居で見た桜餅屋の暖簾のいろ。
御飯をたべながらのあの立廻り
さてもさて、吉田の松若
竹屋の渡
だら/\と渡し場へ下りて行くなぞへ[#「なぞへ」に傍点]な阪のとつつき[#「とつつき」に傍点]に、曲つて折れさうに立つてゐた瓦斯燈ひとつ。
流れ灌頂の周りを泳ぐ都鳥
泉鏡花小史「義血侠血」。林伯猿が関東節にいで来る滝の白糸は、このあたり土手下の家で、恋ゆゑ人をころしたか。そのとき山谷堀の方にあたつて大きな火の手があがつてゐたつけ。
浪六の「当世五人男」。
汐入村の名のなつかしさよ。
[#ここから1字下げ]
「直ぐと中の郷へ曲つて業平橋へ出ると、この辺はもう春と云つ
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