ても汚い鱗葺の屋根の上に唯だ明るく日があたつてゐると云ふばかりで、沈滞した堀割の水が麗な青空の色を其のままに映してゐる曳舟通り。」
[#ここで字下げ終わり]

 永井先生が「すみだ川」の一節――。
 宗十郎が云つた、昔、今戸に住んでゐた沢村宗十郎が。

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「お猪口一つ持つて行きさへすれば、墨堤十里、あつちでさゝれ、こつちでさゝれ、随分いい心持ちによつぱらつてお花見ができたものですよ、あなた」
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 さてこそな、落語の「花見酒」。
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佃育ちの白魚さへも
  花に浮かれてすみだ川
[#ここで字下げ終わり]
 この唄、たゞ美辞をつらねたものとばつかりおもつてゐたら、ほんたうについ明治の中ごろまでは花見舟で白魚を手掬《てずく》ひにする芸当もできたさうなとこれはこのあひだラジオでの伯鶴のはなし。
 おしまひに昨夜、いい清元の談《はなし》を聞いて来た、「清心」と「三千歳」との清元の談を。

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「清心が十六夜にパッタリであふ、そのときすぐ十六夜ぢやないかとさう云つてしまつてはいけない。闇の夜の哀しさ、十六夜……とここで一と呼吸。
 暫く闇に、相手を見据ゑて、ぢやないかと云ふ可きだらう。だが、ハッキリいとしいひとの声音にふれた十六夜の方は、言下に、いやその言葉の終るをさへ待たで、清心さまとすがり付く可し」
[#ここで字下げ終わり]

 また、

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「入谷の寮のかの新造二人、一人はなか/\おちついてゐるをんなにて、いまの鳴子の音は雪のやうではないと云ふところしづかに喋れど、もう一人の方はただ気のいい許りのをんなとてではもしや直はんが……と思はず甲高声で云ひ、忽ち朋輩よりたしなめられる。ほんの端役のこの二人も、斯の如くちやんと性格はあるものぞかし」
[#ここで字下げ終わり]

 もうひとつまた、

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「その直侍が、新造の名を呼ぶ。千代春さんか、と。たしかに稽古本にはさう書いてあれど、千代春さんかと発音しては堅気になる。さんのさは「ら」と発音せよ。「千代春らんか」即ちこれにて随分鉄火なやくざものには聞ゆる可し」
[#ここで字下げ終わり]
[#地から1字上げ](昭和十七年二、一五、大雪の日)

 金魚売

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 浅草橋
棚の藤咲きゐたりけり主《あるじ》留守
[#ここで字下げ終わり]
 この間、橋場へ宇野信夫君を訪れたときの句である。偶々、不在だつたので、程ちかい永伝寺に久々で増田龍雨さんの墓を掃ひ、一つこれから白昼の吉原でも抜けて見ようと、山谷の電車通りの方へボンヤリ歩みをはこんでゐたときだつた。だしぬけに横丁から荷を担いだ金魚売がでて来た。いくつも/\のギヤマンの鉢の中には、大きい小さい緋《あか》い白い薄紅いいろいろの金魚が揺れて泳いでゐたが、とりわけ私の目を魅いたは、一ばん立派な鉢の中の無気味に大きな支那金魚二尾黒蝶のやうないろのと、香橙いろへ一めんの黒斑のあるのと、ポコンと飛びだした目玉をそのまゝ、ヂツと眠つたやうに浮いてゐるそのすがただつた。芳虎あたりの横浜紅毛館洋妾の図の点景には、さしづめこんなギヤマンへこんな支那金魚があしらはれてゐるにちがひない。
 それにしても、未だ藤の花の句を詠んでゐる四月半にもうめぐりあふとは蓋し私にとつては今年はじめての、街上相見えた金魚売である。
 人蔘いろに群れてゐる目高。王者のやうに鰭垂れてゐる蘭鋳、緋鯉。緋鮒。むらさきの花ひらくぽてれん草。モヤ/\と薄緑の金魚藻。小豆いろしたあの糸蚯蚓まで金魚売の持つて来るものは、みんな市井の路次々々の人たちのやう、親しみ易い。「目高アア、金魚イ」売声のまくらで落語家がよくやるハタと人足絶えた旧東京の日盛りの街々をおもはせてなつかしい。
 子供の時分、本郷の菊阪にはギイと木戸を開け、石段を下りて行くと、「天野八郎」の召捕りへでさうな金魚屋があつた。いくつにも仕切つた四角い池へは、じつにいろ/\さま/″\の金魚が眉目《みめ》美しく放たれてゐた。さうしてそのとき真夏の午後の白銀《しろがね》の日は、怖しいほど、たゞしんしんと池全体へふりそゝいでゐるのだつた。[#地から1字上げ](昭和十七年夏)

 東京の声

 同じ題で木村荘八画伯が、たしか大正十四年秋、都新聞へ書かれたことがある。
 それは「太神楽《だいかぐら》」を「タイカグラ[#「タイカグラ」に傍点]」だの「寄席」を「ヨセセキ」などと発音する当時のアナウンサー諸君を叱正し、希くは東京の声で正確にアナウンスしてもらひたいと書かれたものだつた。
 いま、私の書かうとすることも、全くそれと同じことだ。
 でも、あの時分は放送事業草創時代のことだから、南蛮|鴃舌《げきぜつ》のアナウンサーが多少まじつてゐたのかとおもつてゐたら、この傾向はだんだん年と共にひどくなつてゆく。
 そのくせ、アナウンサーの試験と云ふのは中々厳選のやうだけれど、一体、どんな人が試験官になるのだらう。鈴を振るやうな美声もいいし、「特許局許可局」が淀みなく云へるお方も勿論必要だけれど、訛りのない人を選ぶつてこともテストの重要なポイントの一つにぜひ加へて貰ひたいものだ。局には高橋邦太郎君、松島通夫君、坂本朝一君のごとき、チヤキ/\の江戸ツ子もゐることだから、その点の詮衡なら極めて容易であらうものを。
 アナウンスされて一ばん困るのは芸人の名前――取り分け講釈師の名前である。
 山陽・貞鏡・南龍・南玉などは、仮に類音を求めるならば東京[#「東京」に傍点]・放送[#「放送」に傍点]・天然[#「天然」に傍点]・行進[#「行進」に傍点]と云ふやうな言葉の場合の発音でやつて頂きたいのを、陰陽[#「陰陽」に傍点]・孝行[#「孝行」に傍点]・風流[#「風流」に傍点]・九州[#「九州」に傍点]と云ふやうな発音で紹介される。聞いてゐて何だか全く別人のやうなかんじがされて、じつに可笑しい。
 第一、地方の聴取者なんか、さう云ふ発音でおぼえ込んでしまひ、かくて訛りはいよ/\猫の子のその子の猫の猫の子の……と云つた具合に氾濫拡大されてゆくだらう
 取り戻す可し東京の声。[#地から1字上げ](昭和十四年秋)

 年の市

 先づ十二月の十四日、深川の八幡さまを皮切りとするこの東京の年の市は、次いで十七十八日が浅草の観音さまで、廿日廿一日が神田の明神さま、そのあと芝神明(廿二日)芝愛宕権現(廿四日)平河天神(廿五日)、さうして納めが二十八日の薬研堀だつたが、明治末からか大正からか俄に銀座の繁昌が一ときはとなつて、大晦日あすこの西側にも年の市が立つやうになつた。
 浅草の市、神田の市のそのころは、ともするととろんとあぐねて曇りがちの、夕かたまけて小雪のちら付いて来ることも屡々だつた。この浅草の年の市の夜の賑はひは、いま此を小林清親が旧東京版画の上に偲ぶ可し。さらに大正年代の富士山印東京レコードなる故柳家枝太郎が大津絵の「両国」の一節に聴くもよからう。
 曰く※[#歌記号、1−3−28]浅草市の売物は、雑器に塵とり貝杓子、とろろ昆布に伊勢海老か、桶ァ負けた、市ァ負けた、笹に付いたるこの面は、お福のお面と申します。焙籠鉄灸《あぶりこてっきゅう》に金火箸、椹《さわら》の手桶は軽かつた、山椒の擂粉木《すりこぎ》こいつァ重い、張子の松茸おお軽い(下略)」もちろんここは大津絵の節ではなく、俗にアンコ入りと称えられる大津絵と大津絵との間で、囃子賑やかに可笑味の三味線いと早口にいと面白く捲くし立てられては行くところなのである。
 鳥料理の金田の前へ、お客の買つて来た大羽子板が次々と花やかに飾り立てられ、その側らところどころに明るく景気好く揺れかがやいてゐる弓張提燈の灯よ。羽子板は云ふまでもなく、当時大人気の役者の似顔。明治大正の昔は、今日のやうに毎月芝居が開かなかつたから、たまさか団蔵がかへつて来て仁木を演つたり、大阪から斎入や多見之助や鴈次郎が上京したりすると、それが永く永く話題にのこり、親しく庶民の生活の中へも溶け入つて、早速その年の暮には羽子板や双六の好画材となり、再びそのときの芝居の景色を愉しくなつかしく想ひ起させたもの。さしづめ今日で云へば、六代目と花柳の初顔合はせとか、ロッパとエノケンの合同などが、それである。
 廿八日の薬研堀の市のころは、もう数え日で、却つてお天気はしづかに暖かい小春のやうな日和となつてゐた、小さいじぶん私は大叔母に連れられたつた一ぺんだけ、明るい午後の日ざしの中を歩き廻つたことがある。三枚目で売つた新派俳優藤井六輔をこの辺に住まはせて、久保田万太郎氏の「春泥」はこの町のしゞまを如実に描破してゐる。
 さてまた浅草の話へ戻つて、いまも焼けずにのこつてゐる二天門あたり注連《しめ》か飾りか橙か、観音堂ちかい市の売声が、どよめきが真黒い人影が、仄明るい灯かげの中に聞え、うかがはれて来る風情は、亡師父三遊亭円馬が「姫がたり」と云ふ落語。浅草市の晩妖艶の悪婆がお姫さまに化けて、虚病をつかひ二天門のほとりに住む強慾非道のお医者を懲らしむるの一席である。以来、絶えて演り手がない。
 事変がはじまつてから三年、でも未だ未だ世並は割合によくて年の市の晩に、伝法院界隈の古代裂れなどひさぐ小体に気の利いた店の二階、同好寄りつどつて運座を催したことがある。その店先には「乗合船」の舞台をおもはせる見事な柿いろの革羽織が一つ吊下げられてゐたが、句筵半にして階下から上がつて来て我々の仲間入りしたその家の主は、たつたいまあの革羽織が二百円で売れました、世間は景気が好いのですねえとさも感嘆するやうに云つたりした。今日からおもへば、全く嘘のやうな話である。その晩私は運座に先立つて親しく見て来たお堂の裏、噴水の辺に威勢好く軒を列ねて勝手道具の数々を売つてゐる枝太郎の「両国」宛らの有様をば目に描いて、
[#ここから2字下げ]
灯の中や杵活き/\と年の市
[#ここで字下げ終わり]
とつたない一句をものしたが、折柄おもてにはしみ/″\と仇な新内流しが高音の三味線。いまに私は、その夜の景色を忘れることができないのである。

 ただ[#「ただ」に傍点]※[#「米+參」、第3水準1−89−88]粉《しんこ》

 きのふ、十八になる娘分の春美がただ[#「ただ」に傍点]※[#「米+參」、第3水準1−89−88]粉を牛込の方でみつけたとて購つて来た。そのお※[#「米+參」、第3水準1−89−88]粉ただ[#「ただ」に傍点]※[#「米+參」、第3水準1−89−88]粉とは云ふものゝ決して昔のやうな正面へドデンと白い山脈のやうなものが据えられ、その前へ赤、青、緑、黄、黒、時として金、銀までの小さな色※[#「米+參」、第3水準1−89−88]粉の舎人《とねり》のごとくとあしらはれてゐるものではなく、一めんの黙々と白い、巨いなる固まりの、さうしてまことに一も二もなくたゞそれつきりのものだつた。
 しきりに妹はそれで土瓶や兎などこしらへてゐたが、土台が白一といろなのだからどうにも佗びしく、およそ法返しのつかないものだつた。
 かね/″\私は一ど自著の表紙にはありし日の下町生活の象徴として、ただ[#「ただ」に傍点]※[#「米+參」、第3水準1−89−88]粉を木村荘八画伯に描いていたゞき度いとおもつてゐるものであるが、この分では表紙にして見ても若い読者たちからは此は一体何だ色見本かとでも云ふことになりさうである。
 いつそはかなく情なかつた。
 ……今し方、横丁の文房具屋まで便箋を買ひにでて、そこに春待つ羽根のたぐひの山ほど積まれてあるのをみいだしてはじめて私は、ホツと安心したやうなものを感じた。
 白と朱のや、黒と牡丹と緑のや、さては五|色《しき》もいろとり/″\のや、なべての羽根はみなことごとく世にも美しく花々しく彩られてはゐたからである。

[#ここから1字下げ]
 以上を発表してすぐ同じ浅草育ちの高篤三からは左の葉書をもらひ、さらに昭和十八年十月はしなくも仲見世で紅一
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