だらうか、鴨南蛮の黒い細い煙突や大和田のあの店構へを尻目に昔願人坊主が住んでゐたと云はれる橋本町の方へつづいてゐる。ちよつと長崎をおもはせる小さな石造りのめがね橋が、佇むと反対の側の東の方には眺められる。
 それにしてもあの壕割の眺めは、よく晴れた六月の真昼が美しい。淀み、濁つた水ことごとくを、桔梗いろの大空がなんとそつくりそのいろに染めつくしてしまふので。
 かくて私には私ひとり丈け通用する句がある――。
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はつ夏や鞍掛橋の下の水
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 広重の家
 大震災まで今川橋の壕割沿ひの石垣には、可成の柘榴が植えられてゐた。それが、はつ夏、燃えるやうな花々を眩しく咲かせた。
 きのふとほつてみたら、もう柘榴の木なんか跡形もなく晩夏の夾竹桃が、夕風にしやな/\した枝を真紅な花ぐるみ揺られてゐた。鉄道草が横に一の字を描いたやうに無気味に伸びて、これ丈けは震災前から少しも変らない泥々の水面に、寂しくその影を落してゐた。
 昔、柘榴のよく咲いた時分、たしかその木の脇に広重の家があつた、と亡き竹久夢二さんは嘗て私に教へて呉れた。明治開化の、チヤチな東京版画(それ故にこそなつかしい!)を沢山描いた、三代広重の末孫だらうか。それとも間男広重と呼ばれた人の身寄りなのだらうか。間男広重の所縁などいまのうち、伊藤晴雨氏にでも質しておかうとおもひながら、未だ果してゐない。
 きのふも私はあの橋の上に立ちどまつて、暫し、ありし日の夢二さんが上をしみ/″\と偲んだ。私は夢二さんにこよなき装幀をかいてもらひながら、その市井随筆集はつひに上梓の運びに至らなかつた。しかも、その私の装幀がきつかけ[#「きつかけ」に傍点]となつて夢二さんの方は、間もなく女流作家と同棲したりしたのに、かんじんの装幀は、惜しや我が流寓のうちに失はれてしまつた。画伯逝いてもう何年になることだらう。
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広重の家のうしろの堀割は流れもあへずいまもあるらむ
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「小夜曲《セレナーデ》」にある夢二さんの歌は、たしかかうだとおぼえてゐる。[#地から1字上げ](昭和十七年夏)

 風船あられ

 飯蛸、鯖、魴※[#「魚+弗」、第3水準1−94−37]、白魚、さより、蛤、赤貝、栄螺、分葱、京葱、鶯餅、草餅、茶飯、木の芽――と、かたへのものゝ記には三月のあぢ
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