します。焙籠鉄灸《あぶりこてっきゅう》に金火箸、椹《さわら》の手桶は軽かつた、山椒の擂粉木《すりこぎ》こいつァ重い、張子の松茸おお軽い(下略)」もちろんここは大津絵の節ではなく、俗にアンコ入りと称えられる大津絵と大津絵との間で、囃子賑やかに可笑味の三味線いと早口にいと面白く捲くし立てられては行くところなのである。
 鳥料理の金田の前へ、お客の買つて来た大羽子板が次々と花やかに飾り立てられ、その側らところどころに明るく景気好く揺れかがやいてゐる弓張提燈の灯よ。羽子板は云ふまでもなく、当時大人気の役者の似顔。明治大正の昔は、今日のやうに毎月芝居が開かなかつたから、たまさか団蔵がかへつて来て仁木を演つたり、大阪から斎入や多見之助や鴈次郎が上京したりすると、それが永く永く話題にのこり、親しく庶民の生活の中へも溶け入つて、早速その年の暮には羽子板や双六の好画材となり、再びそのときの芝居の景色を愉しくなつかしく想ひ起させたもの。さしづめ今日で云へば、六代目と花柳の初顔合はせとか、ロッパとエノケンの合同などが、それである。
 廿八日の薬研堀の市のころは、もう数え日で、却つてお天気はしづかに暖かい小春のやうな日和となつてゐた、小さいじぶん私は大叔母に連れられたつた一ぺんだけ、明るい午後の日ざしの中を歩き廻つたことがある。三枚目で売つた新派俳優藤井六輔をこの辺に住まはせて、久保田万太郎氏の「春泥」はこの町のしゞまを如実に描破してゐる。
 さてまた浅草の話へ戻つて、いまも焼けずにのこつてゐる二天門あたり注連《しめ》か飾りか橙か、観音堂ちかい市の売声が、どよめきが真黒い人影が、仄明るい灯かげの中に聞え、うかがはれて来る風情は、亡師父三遊亭円馬が「姫がたり」と云ふ落語。浅草市の晩妖艶の悪婆がお姫さまに化けて、虚病をつかひ二天門のほとりに住む強慾非道のお医者を懲らしむるの一席である。以来、絶えて演り手がない。
 事変がはじまつてから三年、でも未だ未だ世並は割合によくて年の市の晩に、伝法院界隈の古代裂れなどひさぐ小体に気の利いた店の二階、同好寄りつどつて運座を催したことがある。その店先には「乗合船」の舞台をおもはせる見事な柿いろの革羽織が一つ吊下げられてゐたが、句筵半にして階下から上がつて来て我々の仲間入りしたその家の主は、たつたいまあの革羽織が二百円で売れました、世間は景気が好いのですねえと
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