り主《あるじ》留守
[#ここで字下げ終わり]
この間、橋場へ宇野信夫君を訪れたときの句である。偶々、不在だつたので、程ちかい永伝寺に久々で増田龍雨さんの墓を掃ひ、一つこれから白昼の吉原でも抜けて見ようと、山谷の電車通りの方へボンヤリ歩みをはこんでゐたときだつた。だしぬけに横丁から荷を担いだ金魚売がでて来た。いくつも/\のギヤマンの鉢の中には、大きい小さい緋《あか》い白い薄紅いいろいろの金魚が揺れて泳いでゐたが、とりわけ私の目を魅いたは、一ばん立派な鉢の中の無気味に大きな支那金魚二尾黒蝶のやうないろのと、香橙いろへ一めんの黒斑のあるのと、ポコンと飛びだした目玉をそのまゝ、ヂツと眠つたやうに浮いてゐるそのすがただつた。芳虎あたりの横浜紅毛館洋妾の図の点景には、さしづめこんなギヤマンへこんな支那金魚があしらはれてゐるにちがひない。
それにしても、未だ藤の花の句を詠んでゐる四月半にもうめぐりあふとは蓋し私にとつては今年はじめての、街上相見えた金魚売である。
人蔘いろに群れてゐる目高。王者のやうに鰭垂れてゐる蘭鋳、緋鯉。緋鮒。むらさきの花ひらくぽてれん草。モヤ/\と薄緑の金魚藻。小豆いろしたあの糸蚯蚓まで金魚売の持つて来るものは、みんな市井の路次々々の人たちのやう、親しみ易い。「目高アア、金魚イ」売声のまくらで落語家がよくやるハタと人足絶えた旧東京の日盛りの街々をおもはせてなつかしい。
子供の時分、本郷の菊阪にはギイと木戸を開け、石段を下りて行くと、「天野八郎」の召捕りへでさうな金魚屋があつた。いくつにも仕切つた四角い池へは、じつにいろ/\さま/″\の金魚が眉目《みめ》美しく放たれてゐた。さうしてそのとき真夏の午後の白銀《しろがね》の日は、怖しいほど、たゞしんしんと池全体へふりそゝいでゐるのだつた。[#地から1字上げ](昭和十七年夏)
東京の声
同じ題で木村荘八画伯が、たしか大正十四年秋、都新聞へ書かれたことがある。
それは「太神楽《だいかぐら》」を「タイカグラ[#「タイカグラ」に傍点]」だの「寄席」を「ヨセセキ」などと発音する当時のアナウンサー諸君を叱正し、希くは東京の声で正確にアナウンスしてもらひたいと書かれたものだつた。
いま、私の書かうとすることも、全くそれと同じことだ。
でも、あの時分は放送事業草創時代のことだから、南蛮|鴃舌《げきぜつ》のアナ
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