れさんざんに叱られた時、彼、そやかて私は死んだ師匠からこのとおり教わりましたのんで、あの、師匠の教えてくれはったとおり演ったら、あきまへんのんかいなあと大真面目に訊ねたので、さすがの署長が困ったという。けだし枝雀は、そうした市井芸人気質をしみじみと身につけていた落語家の最後のひとりだった。なればこそ、東京出演をすすめられても「汽車が怖いよってよゥ行きまへん」とてついに上京せずじまいだったし、隠退後も移り住んだ生駒山近くの住居が文化ハウスだったので時世はついに枝雀老人をもかかる洋館に住まわせるかと訪問者にそぞろ感慨を催させたら、なんの当の本人は折がら、正午の、西洋間の大テーブルの上へ、キチンと夫婦して上がって、座って昼飯を食べていたという。
先代桂春團治は、平常の高座もずいぶん愉快なワイセツ振りだったが、当代春團治もまたそっくりその話風を継承していて、だから時々その筋から叱られている。これは桂文楽君に聞いた話であるが先年、名古屋の著名人たちの会合に同君と春團治君が招かれた時、春團治、席につくがいなや立ち上がって羽織を脱ぎ、借りてきた衣紋《えもん》竹へ自らその羽織を裏返しにして掛けたら何とその羽織の裏一面が巧緻な春宮秘戯図! ために、今までわずかしかつめらしい空気でありすぎたその一座が、たちまち満堂和気|靄々《あいあい》としてしまって、何ともいえないいい一夜のつどいになったという。あるいは、これも先代ゆずりの座敷におけるエチケットだったのかもしれないが、いかにも春團治らしい色の濃くながれている話ではないか。
春宮秘戯図といえば、これは東京の話だが、昭和戦前までいた坊主頭で寸詰まりの愛嬌のある顔をした春風亭柳丸という爺さん、売り物はおよそ前代の漫芸ばかりで百まなこ、ひとり茶番、阿呆陀羅経には犬猫の物真似。猫の啼き声を演ったあとで「ちょいとニャーニャーにおぶうを呑ませまして」いと軽く高座の湯呑みを取り上げて自らの咽喉をうるおす呼吸が愉しかった。この人の明治味感は木村荘八画伯も[#「木村荘八画伯も」は底本では「木材荘八画伯も」]何かの随筆の中で讃えておられたと思う。彼柳丸には稚拙な笑い絵を描いては仲間に無料でくれてやる道楽があって、その一枚が警察の手へ入ったために大騒動、彼に絵をもらった落語家一同が参考人としてみんな呼び出されたという騒ぎもあった。この老芸人にはさらにさらに奇癖があって常に手淫を好み、ために妻女をも離別したほどの常習者だったが、一夜彼以外まだ誰も到着していないある寄席の楽屋で、ムラムラと味な心持ちになり、厠《かわや》へ駆け込んでしまったら、とたんに前の出演者が一席おわって高座を下りてきた。が、柳丸の、ことのおわるまではどうすることもできないので、よんどころなく幕を下ろして、その間、賑やかにお囃子でつないでいた、という。そんな原因から幕を下ろし、囃し立てているのだとはつゆ知らないで、陽気な囃子の音色にボンヤリ聴き入っていたろうその晩のお客たちの顔を思うと、じつにおかしい。
もう一つある。京都の新京極のはずれにあった笑福亭という落語の寄席で、旧友K君。便意を催して厠に入っているうち、俄《にわか》に芸術を覚えだして、懐中からナイフを取り出すと、前面の板戸へ日頃得意とする男女愛欲図を、等身大に彫りはじめた。彫っているうちもう、落語なんかどうでもよくなったほど夢中になってきて、とうとう終演直前までかかってやっと彫り上げた由。K君は、名をいえばすぐ分かる詩壇の耆宿《きしゅく》で、今もいよいよ健在であるが、笑福亭の方はたしか戦争中の強制疎開でなくなってしまった。秘画彫りし板戸も、その時悠久にこの世から消え果てたろう。
先年亡くなったあやつりの結城孫三郎は、同時に両川亭船遊を名のって、風流写し絵の妙手。明治初年の夏の夜には両国橋畔に船を浮かべて、青簾《あおすだれ》のうちも床しい屋根船のお客へ、極彩色の雲雨巫山の写し絵を見せたものだという。
……水のような夜風と、船べりを洗う川波と、熱い頬と頬を寄せて胸ときめかせながら写し絵の濡れ場に見入っている役者のような若旦那と柳橋に艶名高いうら若い美妓と、その時堅川の方へは星が一つ、青い尾を曳いてながれたろう。
きょうびのストリツプも佳人が踊れば「絵」ではあるが、肝腎の背景とする「時代」にあまり詩がゆめが、ない。
昔を今になすよしもがな。
[#改ページ]
おでこのしゃっぽ[#「しゃっぽ」は底本では「しゃっぼ」]
先日、馬楽改め八代目林家正蔵君の披露が、浅草の伝法院で催された時も、したたか酔っ払った私はこれももうすこぶるいい御機嫌になっていた一竜斎貞丈と、今は亡き文芸講談のE師についていろいろ談《かた》り合ったが、師吉井勇と飲む時にも、きっと一度はこのE師の思い出話が出ないことはない。
鏡花の「高野聖」「註文帖」、露伴の「五重塔」、風葉の「恋慕流し」、幽芳の「毒草」「己が罪」、紅葉の「金色夜叉」から、晩年は秋成の「雨月物語」まで演じて、
「あれはまさに徳川夢声の先蹤《せんしょう》をなすものだったねぇ」
と、いつもそのたんび吉井師は、感慨深げに呟《つぶや》かれるのだった。
私の話術は、師父たる先代円馬が手ほどきで、ついでこのE師に開眼させてもらったもの。E師は私の母校たるK中学の英語教師から講談師に転身したのであるが、私が入学した時分には、もう薄暗い昼席の釈台を叩いて、若い講談ファンをよろこばせておられたから、英語の方の開眼はさせてもらわなかった。
前置きが長すぎてしまってごめんなさい。
このE師を、仲間があだ名して「尾形清十郎」という。尾形清十郎とは、落語「のざらし」へ出でてくる、向島へ釣りに出かけて路傍の骨に回向をし、その晩、その骨が艶麗の美女となって礼に来て喋々喃々《ちょうちょうなんなん》、おおいに壁一重隣の八さんを悩ますあの老人であるが、わがE師もまた、日頃、とにかく鹿爪《しかつめ》らしいことを並べ立てながら、じつはまったくさにあらずで、おおいにその道のエキスパートにましますというあだ名なのである。
それにしてもE師の情痴はあくまでE師らしく、彼女と同衾《どうきん》の真っ最中でも、抱擁の最高潮時でも、いちいちそのこと自身にいやに糞真面目な理屈がついて廻っていて、それがよほどおかしいのである。
なかんずく、おでこのしゃっぽと言うあだ名ある(よくあだ名が出るが)情人が出きた時の話など、E師の面目躍如たるものがある。おでこのしゃっぽとは、おでこがしゃっぽ(帽子)を冠って歩いてるような顔だという意味。けだし、あまりいい女じゃない。
だのに、このおでこのしゃっぽ、ひどいひどい浮気者で、以前は芝の蒲団屋の娘だったとかかみさんだったとか、蒲団屋のかみさんだけにやたらに誰とでも寝たのかもしれないが、この間死んだ伯鶴、先代小円朝、今の金語楼、等々まだまだそのほか大正末から昭和へかけての講談落語界には有名無名の関係者がたくさんあった。
E師は、敢然とこの多情なおでこのしゃっぽの旦那に納まったのであるが、その旦那たるにもまたちゃんとひとかどの理屈がついていた。
「あの女があまり哀れであるから私は関係を続けている。私のような一方の人士の情涙を彼女が受け入れれば、自らその性格も変わるであろう」
って、変わりゃしないよ!
なにしろ全然大真面目の、いとど重々しい越後訛りで、こう言うのだからおかしかった。
論より証拠、おでこのしゃっぽの依然変わらなかった証拠には、E師が定まるパトロンとなったのちも、彼女はちょいちょい浮気をした。そしてばれた。
一日、とうとう堪忍袋の緒をきらしたE師は、彼女を拉《らっ》して竜泉寺あたりの風雅な宿屋へと出かけた(ああ、その頃の台東区竜泉寺には、いまだ美しい蓮田があり、葭切《よしきり》が鳴き、アベックに好適な水郷だった!)。そうして、宿屋から借りた剃刀で、彼女のある部分を無毛にしてしまうと、今日もまた極めて暗鬱な調子で、
「今後ともお前はその無毛の部分を見るたびに、今回の浮気の自戒としなさい」
と一場の訓辞をのこしてE師、悠々、昼席へ出かけてしまった。残されたおでこのしゃっぽはすぐにかねて交渉のあった前座のFを呼び寄せると、
「今、Eの奴がね、私のをみんなあたっち[#「あたっち」に傍点]まったんだよ」
「へーェ、いったいどんなにあたったんですネ姐さん」
「ホーラ、こんなだよ」
クルリ無遠慮に彼女が展開したとたん、好機到来とばかりよろしくF青年、漁夫の利を占めてしまったというのである。
そのE師は玉川の僧院に余生をおくって失明、戦後逝った。竜泉寺にもう蓮田が見られないようおでこのしゃっぽの消息もようとしてわからない。あるいはもうE師のあとを追っているかもしれない。
前座のFは、いまや現役のパリパリで、この文章の中にも登場しているが、さて、「ワタクシハダレデショウ?」
なに、筆者自身じゃないか――って、冗、冗談だろう、ダ、誰が!
[#改ページ]
寄席ぐろてすく
昔々大正の頃、場末の浪花節の寄席へは、明治三十年代一世を驚倒させた例のお茶の水事件のおこの殺しの真犯人松平紀義が出演しては、しばしばその懺悔談を口演した。私が中学生だった大正中世にも根津あたりの町角で白地へ三葉葵の定紋いかめしく黄金《きん》色に印刷した一枚看板のポスターがひるがえっていたことを、今もまざまざ目先に思い浮かべることができる。
昭和四、五年頃の秋の夜には、神田三崎町の三市場というやはり浪花節の定席へ、怪賊五寸釘寅吉の看板がいと佗びし気に上がっていて、私は今は亡き詩友宮島貞丈と感慨深く太文字に書かれたこの明治怪盗の名をしばし相|佇《たたず》んで打ち仰いだものだった。
でも、私はその松平紀義の高座も、五寸釘寅吉の高座もついに聴いてはいない。前者の場合は当時宮永町に住んでいた学友で、今日も支那文学者一戸務君を訪れる途次だったのであるから先より聴くべくもなかったが、後者の場合は私自身ひどく酔っ払っていて、寅吉もいいが、それよりもその暇にもう一軒飲んで歩こうと考えてそうそうに立ち去ってしまったのだったから、不勉強の罪、万死に値する。
松平紀義は私がポスターを見てから間もなくまたまた何かの事件を起こして捕縛され寂しく獄死してしまったが、五寸釘寅吉とて数年後、岩崎栄氏が雑誌「日の出」へ、本人の写真入りで自叙伝風の読み物は紹介されたものの、恐らくや戦前老い朽ちて死に、最早、現世声咳には接すべくもあるまい。いよいよ今日にして彼らの高座に触れておかなかった悔いが深い。
浜町河岸箱丁殺しの花井|於梅《おうめ》が寄席へ出たのはいつ頃だろうか。私の子供の時分(明治末)には、吉沢商会の活動写真(もちろん、今日でいうところの劇映画)へ登場していた。さる老落語家の手記によると、於梅は寄席では主に手踊りなど見せていたらしいが、衰残の大姥桜、せっかくの踊りも脂気が抜けてただいたましく寄席もひと廻り巡演しただけで好評再演というわけにはいかず、最後は郡部の寄席へまで看板を曝《さら》した、とある。とすると彼女の映画入りは、この寄席出演失敗以後のことだったのだろうか。
花井於梅が蜂吉を殺した明治中世にはわが国の裁判ももうよほど進歩していたから大岡育造や角田真平(竹冷)が弁護してやり、従って命まっとうして苦役後、娑婆へも出られたわけだが、明治初年においてもまた一審で断罪ということなく自由に控訴ができたなら、かの高橋お伝も夜嵐お絹もいたずらに首斬浅右衛門の御厄介にばかりならないで命めでたく、それぞれ寄席の高座へ、残菊の花香を匂わせたことだったろう。ましてお絹は当初、鈴川小春と名乗って日本手品の名花一輪、滝の白糸のごとき水芸その他を、江戸末年の各席において常に上演していたにおいておや。同時に、活動写真の発明とわが国への渡来がそれぞれいま十年早かりせば、お伝もお絹もいまだ残《ざ》んの色香なまめかしい出獄早々スクリーンへその妖姿を現して、たちまちに満都の人気を席捲することができ得た
前へ
次へ
全4ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
正岡 容 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング