う。
三
明治落語界を風靡した滑稽舞踊「郭巨の釜掘り」の一節に、
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※[#歌記号、1−3−28]吉原おいらん手紙は書くけど表にゃ出られぬバー
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という文句があったが、いやそんなに古く溯るまでもない。大正大震災後に流行した現代映画、『籠の鳥』の主題歌でさえ、
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※[#歌記号、1−3−28]あなたの呼ぶ声忘れはせぬが 出るに出られぬ籠の鳥
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と歌っていた。外出するおいらんに、小母さん(やり手)が従いて看視していた風景は、戦争激化以前にはよく町で見られた。
ちょうど、それの正反対のあり方をしているのが、今日のパレスの彼女たちなのであると、原さんは言うのだった。
まず雇用関係でないから、いつ外出しようと、いつ客とどこへ出かけようと、いつ親元へ行ってこようと、いつ休もうと、いっさいが自由、従って公休日はない。すなわち公休日の不要なほど、自由に振る舞っていられるというのである。
従って昼の時間がまったく楽なため、パレスの生活をアルバイトとして、女子大を出たもの、某音楽学校を卒業したものもあるという。
収入もまたかりにお客が二千円くれたのに千円ですと言って、その中から千円分の税金と部屋代、(折半に近い金額)を支払われても、パレス側は一切、女からのあてがい扶持で、唯々諾々としていなければならない。
中には自分が達引《たてひ》いて間夫を泊まらせ、明日の晩たくさん稼ぐから、今夜はタダで遊ばせてよとハッキリ言う女もあるそうな。
「そういう子に限ってまたなかなか腕があり、ほんとによく働くんですよ」
と、原夫人は言われた。
「パレス側とひと口に言いますが、五十個の業者が、それぞれ自主的に寄宿しているダンサーを持っているわけなんですが」
また原さんがこう語りついで、ダンサーはみな東京及び近県が多く、十人のうち八人までは女学校卒業で、小学校程度のは少ない。
平均年齢は二十一、二歳で、最長が三十歳。
「収入のない子は自然に辞めて行きますが、パレス側では最低収入の者を標準にして、いろいろの設備をしているわけで、衣裳こそ自前ですが」
付属病院へ入院しても、注射代以外は無料、食事も共同炊事で、ダンサーはできた食事を自分の部屋へ運んで食べる。
原則としては支配人たちも同一のお菜で朝食(正午)は客の帰ったあと、ともに一堂に会して、すます。
ダンサーたちの中には配給券のないものもあるが、一日の食費が六十五円で、朝が味噌汁、佃煮、漬け物。昼(三時)がトーストパンまたはうどん。晩(七時)が魚フライとかカレーライスなど、もちろんこれはパレス側のやや負担の由であるが、口の奢っている彼女たちはその以外のお菜を買って食べることももちろんであるし、就寝直前の食事(いわゆるヒケめし)を食べるのも少なくない。何でも場内で間にあうゆえ、外来の業者はもっぱら魚屋、――庭球部あり、芸能(長唄・舞踊)部あり。まずまずこれでは、自由平明、少しも暗い影のささない生活といってよかろう。
整った医務室も見た。薬の匂いのする生暖かい洗浄室へも案内された。
五十人の業者は、パレスの中にそれぞれの屋号を持っていて、原さんのは都川。他も、千歳、千草、春廼家《はるのや》と日本風の名が多いが、まれには銀サロンなどというのもある由。
お客でかよった荷風先生は別として、作家で東京パレスへ交渉を持ったものは、ここに取材の随筆を書かれた坂口安吾さん、ダンサー諸嬢の座談会を司会された玉川一郎さんについでは、私であるという。
荷風先生にまず「寺じまの記」なる玉の井小品があり、ついで先生は名作『※[#「さんずい+(壥−土へん−厂)」、第3水準1−87−25]東綺譚』を発表されたが私はこの拙文を小手しらべによく『東京パレス』という力作が書けるだろうか。思えば、おぼつかない。
スケッチの責任をおわった宮尾画伯は、N氏S氏と暗いぬかるみ道をことともしないで、急に元気にいつもの洒落を口にされ出すようになった。
「夜学の灯の感じだね」
S氏だかN氏だかが、明々と点したパレスの灯を振り返って言った。
今夜もまた縁なくしてとうとう会えなかったやさしい夢見がちな目の持ちぬしのおもかげを、心ひそかに物足らない思い出で私は追っていた。
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恵陽居艶話
風流江戸枕
いかん。できん。落ちん。
こうした用語は、私たち旧東京下町人――つまり江戸っ子の家庭にはなかった。
いけない[#「ない」に傍点]。できない[#「ない」に傍点]。落ちない[#「ない」に傍点]。
正しくこういう発音をしていた。
さらに鉄火な発音なら、「いけねぇ[#「ねぇ」に傍点]」「できねぇ[#「ねぇ」に傍点]」「落ちねぇ[#「ねぇ」に傍点]」で、「いかん」「できん」「落ちん」などは、おそらく田舎官員か芋書生の用語として、子供心にも私たちは軽蔑していた。
ところが星移り、物変わり、春秋ここに四十年――ふと顧みると、いつか私たち純下町人までが、平気で日常用語の中に、この「いかん」「できん」「落ちん」を連発するようになっていたのだから、オドロク。
これは、この間もくせい[#「もくせい」に傍点]号で不慮の死を遂げた大辻司郎君の、
「ボクは絶対にできんデス」
などと言うあの同君一流の表現のヒットしたことなども、こうした用語の流行に拍車をかけたのかもしれないが、まさしく亡き岡本綺堂先生が『自嘲』に前書きされた、
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トンカツを喰ふ江戸っ子が松魚とは
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で、ひそかに苦笑せざるを得ない。
さて、物語は、我ら江戸っ子全体が「いけない[#「ない」に傍点]」「できない[#「ない」に傍点]」「落ちない[#「ない」に傍点]」と正しく美しい発音を常としていた。もちろん御一新以前の、弓は袋に太刀は鞘、松風、枝を鳴らさなかった御代太平の昔である。
京橋鉄砲洲の西に松平遠江守の上屋敷があり、一日、そこの奥女中が言った。
「あのゥ、鉄漿《かね》が落ちて仕様がないんです。誰かに鉄漿の落ちない粉を買わせてきてくださいません?」
鉄漿とは、お歯黒。昔は、歯を黒く染めることが、女性の一つの身だしなみだったのだ。
※[#歌記号、1−3−28]誰に見しょとて紅鉄漿つけて、みんな主への心中立て――と、長唄「道成寺」にもある。
「何買い物か、よゥし拙者まさに引き受け申したぞ」
すると、即座に引き受けてしまったのが、折あしく近頃お国表の尼ヶ崎から江戸詰になったばかりの奥役人。すなわち、「いかん」「できん」「落ちん」人種のパリパリだった。しかしまた彼のことにすると、底意地の悪い、オールドミス揃いの奥女中たちに睨まれては大変と思ったからだろう、さっそく走り使いの男を呼び寄せると、お国訛りもものものしく、
「コレコレ急いで鉄漿の落ちん粉を買ってまいれ!」
と命令した。
「心得ました」
とすぐさま飛び出していったその使い。ところがそれっきりいつまで経っても帰ってこない。
(何をしていくさるのじゃやら)
いよいよお国訛り丸出しで奥役人ヤキモキしていると、やがてのことに日の暮れ方、汗を拭き拭き戻ってきた奴さん、
「やっと……やっとみつかりました金色のが」
と、ヌーッと差し出したのは、世にも大きな金ピカの張り子の男根!
当時、花柳界では客を招くといって、縁起に張り子の男根を神棚に飾ったもので、今使い奴が持ってきたのは、まさにその超特大製のシロモノだった。
「ナナ何じゃイこれは?」
目を剥き出して奥役人怒鳴りつけたら、言下に大真面目で相手は言った。
「だって旦那、最前《さっき》おっしゃったでしょ、かね[#「かね」に傍点](金)のおちんこ[#「おちんこ」に傍点]」
もう一つこれも大江戸文化いと華やかに、魚河岸の日の出、吉原の桜、さては芝居帰りの月かげ青く、鐘は上野か浅草かと、八百八町の人々が、黒船一発の砲声に、徳川三百年の愉しいなつかしいゆめ破られなかった頃のお話。
今では、わが友古川緑波の出現以来、「声帯模写」と名を変えてしまったが、昔はもっぱら声色《こわいろ》。
もっと古くは「鸚鵡石《おうむせき》」とも称え、そうしたタイトルの声色の本さえ、売り出されていた。
従って当時の声色屋さんたちは、今日とはまったく演出もちがっていて、時の諸名優の模写を演るたんび、必ず扇子で顔を隠し、その扇のかげで演じた。
ただし、彼らは顔中をクシャクシャにしかめたところを見せながら演ったのでは、あたら美男の名優たちのおもかげをほうふつたらしめるべく、感興や効果を殺《そ》ぐといみじくも考えたからなのだろう。そうした、そんな時代の、ある初夏の真昼。
多くの酔客通人を乗せて隅田川へ漕ぎいでた屋根舟に、万緑叢中紅一点、婀娜《あだ》な柳橋の美妓があった。
飲めや歌えや。いまだその頃の隅田川は広重の絵をそのままの別天地で、鯉も鰻も白魚も漁れ、
※[#歌記号、1−3−28]佃育ちの白魚さえも、花に浮かれて隅田川――の唄のとおりで、一同惜みなく歓を尽くした。
と――かの美妓、尾籠《びろう》な話だが、急に尿意を催してきた。美妓だろうが、名妓だろうが、こればかりは仕方がない。
が、さすがにそこは柳橋仕込みの馴れたもので、スーッと舟べりへしゃがむと、しずかに裾を捲り、小さい美しい白扇で前を隠して、用をたしはじめた。
とたんにサッと擦れちがった彼方の船の客の言い草がいい。
「オイ見ねぇ。ヨニ(女陰《ちょいん》)が声色をつかってやがらあ」
まさかヨニとは言わなかったろうが――。
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寄席と艶笑と
下足番の曰く
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三亀松にクソとおもえど先生
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という川柳が、坊野寿山君にある。
柳家三亀松の「芸」への好悪は別として、冬夜、男のオーバーの中へしっかりと抱き寄せられた美しい色白長身の芸者の婀娜姿だけは、たしかに艶冶《えんや》な彼の「舌」から蘇ってくる。その三亀松の非発売レコードに、例の「新婚箱根の一夜」の閨房篇があると聞くが、ほんとうだろうか。が、かりにあるとしても、秘本とちがって音声を発するレコードのこと、めったなところではかけて聴かれまい。
大阪落語に猫の小噺のシリーズがあって、自然にそれの第三席めが、エロティックな落ちになっている。まず第一席は砂浜にねている蛸の足を一本、ムシャムシャ猫が食べてしまったので、憤慨した蛸は今度は寝たふりをしていて相手が食べかけたとたんに海の中へ引き摺り込んでやれと待機していると、いっこうに猫、やってこず。曰く、その手は食わん。第二席は、その猫が一日、赤貝に手を挾まれて困り、カタコトと音立てて挾まれたままで梯子段を上っていくと、二階にいた耳の遠い婆さんが「誰や、下駄履いて二階へ上がるのは」。そして問題の第三席であるが、この猫、妾宅の飼い猫で赤貝の出来事の直後、湯上がりのお妾のふところに抱かれているうちつい滑り落ち、とたんに股間を見上げて、歯をむきだした猫め「フーッ!」。やや考え落ちめいた、いかにも気の利いた落ちだと思う。ところで話中、鳴り物を随所に駆使するのが特色の大阪落語は、小咄の落ちのあとへも、間髪をいれず華やかに囃子で捲し立てるのであるが、故立花家|花橘《かきつ》が、あるレコードへこの「猫」三題を吹き込んだ時には、股間を見上げて「フーッ!」のところでひとしきり噺し立てたあと、さらにあの悠容迫らざる調子で花橘《かきつ》、「ハテこの猫、なにを見ましたんやしらん」となぞって、またもういっぺん囃子を入れさせているのには、思わずふきだしてしまった。御丁寧にもエロを鳴り物入りで派手になぞったなんて落語家は、まず天下にこの立花家花橘だけだろう。
いったいがエロティシズムと尾籠なギャグのいと多い大阪落語ではあるが、昭和初頭に没した菊石で面長だった長老桂枝雀も、一夕、なにかワイセツを言って、出演席ちかくの警察署へ曳か
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