だろう。すなわち彼女たちは十年ずつ早くこの世へ生まれすぎたといえる。けだし世の中にはこうした場合がじつにしばしばあるものだ。
出歯亀。池田亀太郎の強姦殺人事件が全東京を震撼させたのは明治末年、亀太郎は大久保辺の植木屋で、湯帰りの女を強姦絞殺したのであるが、この亀太郎が出ッ歯であったため、人、あだ名して出歯亀と呼んだ。しかし「出歯亀」の名称は、その以来、永く痴漢の代名詞となってつい戦前まで社会的に存在していたのだから、いかに事件がセンセーショナルだったかが想像できよう。
この出歯亀の出獄した時、機をみるに敏なる上野鈴本亭は、さっそく、本人に交渉して、松平紀義や五寸釘式の懺悔談の口演を依頼した。なるほど、おこの殺しも一代の情痴殺人事件だったにはちがいないが、しょせんは自分の情人を殺害したまでである。そこへ行くと、池田亀太郎の方はてんから未知の婦人の、しかも強姦殺人事件である。当日、鈴本亭の前に麗々と「池田亀太郎出演」の看板の掲げられるやいなや物見高い都雀はソレ行けヤレ行け早くも開場早々にして、未曾有の超満員とはなった。どうですちょいと頭をつかえばこのお客さま、これだから寄席稼業は止められませんやと席亭大恐悦でいる時しもあれや、たちまちにして下谷署から出歯亀の出演まかりならぬの一大厳命。さしもの大盛況も、あはれ、一夜の夢とはなり果ててしまった。でもこれは、戦後自由の今日でも、やはり上演禁止と相成るだろうと思うが諸君いかが。
他に、昭和五、六年頃、官員小僧のにせものとか、蝙蝠《こうもり》小僧とかいう老賊が端席へ出て、懺悔談のあと、高座から盗犯防止のリーフレットを売った。つまり窃盗はどういう風な家に多く入るかとか、ゆえに戸締りはどうしろとか、それが十何ヶ条と細目にわたって書いてあるのである[#「書いてあるのである」は底本では「書かいてあるのである」]。蝙蝠小僧の方は黙阿彌の「島千どり」の福島屋のくだりをそっくりそのまま自分のことにして喋っている甘いものだったが、にせの官員小僧の方は大の達弁でストーリーもまたごくおもしろかった。この間、うちのものが日劇名人会へ出演した時、たまたま港家華柳丸君と連夜楽屋を同じうし、彼はかつてにせの官員小僧とたしかに二枚看板で出演していたことがあったのだからと思っていろいろと往年のにせ怪盗の素性を問い質《ただ》してみたが、ニヤニヤしているばっかりでこの老練の浪曲節はいっこうに詳しいことを語ってはくれなかった。他に海賊房次郎や蝮《まむし》のお政がそれぞれ自叙伝を劇化させ、自ら劇中の主人公即ち本人となって出演したこともあったが、これらは寄席ではなく、劇場での話ゆえ、ここでは省こう。
とまれ、花井於梅が寄席へ出たのは、今日の阿部定が、自演の劇を打って歩いているのとまったく同じ理合である。五寸釘寅吉の登場は、これも今日の妻木松吉説教強盗が各所で講演して歩いているのに少しも変わらない。かくして歴史は繰り返す、小平義雄が万々一死刑を免れ、出所したなら、出歯亀同様、寄席へ出て、同じく上演禁止となることだろう。
被害者の方が、寄席へ出演したのでは、明治末年の大阪堀江六人斬事件で両腕斬り落とされた薄幸の芸者妻吉がある。戦前、この惨劇は映画化されて、森静子が妻吉に扮したことがあったが、妻吉は全快後事件の発祥地たる堀江の賑江亭という寄席へ演したのを皮切りに、東京の寄席へも進出して素晴らしい評判をかち得たのである。自ら口へ筆をくわえて高座で絵を描いたり下座の三味線で両手のない私に惚れるのが一番安全だ、手練手管はさらにないわけだからという意味の都々逸を諷《うた》ったりしたのが、おおいに江湖の同情を招いたのだろう。
いかに妻吉に人気があり、収入も多大だったかということは、この間、宇都宮の旅先で手に入れてきた瀬戸半眠翁(瀬戸英一氏巌父)の市井小品集『珍々間語』の中の「斯親子」という阪地の安芸者とその母親との葛藤を叙した一節に、
「かの堀江の妻吉さん見いなア万次郎のために両腕落とされてやったけど、寄席へ出てもこのとおり大人気で両親を楽々養うて、おまけに東京からも買いに来て、東京へ行きやはってもえらい評判で、手取り千円も儲けてきたやないか。お前も甲斐性があるなら、彼の真似をしてみい、できやひょまいが、私にもかような娘が三人もあったら、小借家の七、八軒も建てて家主の御隠居様で暮らしていけるもの、アア辛気くさいことやなア」
云々をみても、よくわかるだろう。
また明治三十四年新版の「東京落語花鏡」という番付を見ると、日本手品の柳川一蝶斎や独楽の松井源水と並んで、バカントラの名前がみえる。
バカントラ。片仮名でかいてあっても、ブラックやジョンペールのような外人ではなく、まさしく日本人。けだし、バカントラは、下関生まれの馬関寅だったのであろうと思う。ところでこのバカントラ、手品や音曲を演るのではなく、連夜高座へ花札やさいころを持って押し上がっては、いわゆるいかさまばくちの種明かしをやって見せ、いささか袁彦道《えんげんどう》をあそぶ人々への、戒めとはしたのである。この点、前掲のにせの官員小僧や蝙蝠小僧が盗犯防止のリーフレットを売ったのとやや似ている、がもちろんその前身とて同じく下関無宿といったような遊侠無頼の徒だったのにちがいない。白昼、そのへんの大道で、でんすけ賭博とやらが堂々と横行している今日この頃もまたバカントラ第二世は颯爽《さっそう》と都下の高座へ君臨して、よろしくいんちき賽の秘密など曝露してくれてもいいのではなからうか。
針金渡りやピストル強盗の一人芝居をして自由党壮士くずれ脱獄囚と自称した、矯躯の奇人日本太郎とくると、もはや大正寄席風物詩中の登場人物だから私にもたいへんハッキリとした記憶がある。何の因果か太郎、元来、蛇が好きで、いつもニョロニョロ生きたのを楽屋へ携帯、一夜、どこかの寄席でこれが客席へ這い出したので、たちまちに女子供は阿鼻叫喚。もっとも花のお江戸の真ん中の寄席で、いきなり蛇に這い出されては、女子供ならずともたいてい悲鳴をあげるだろう。
私はこの日本太郎の、げてもの味感が何ともありがたくなつかしくて、先年その回想の一文を説稿、限定版随筆集『寄席囃子』中へ収めたら、さっそく長谷川伸先生からお手紙を給わり、日本太郎の針金渡りは猿猴《えんこう》栄次のイミテーションであると教えていただいた。
が、不敏なる私は、その時、猿猴栄次について、何ら識っているところがなかった。恥ずかしながらその名前さえ初耳だった。
と、そののちたまたまひもといた雑誌「演芸世界」の明治三十六年六月下旬号に「大悪人の広告」と題する小出緑水氏の一文があって、全文ことごとく栄次のことで埋められていた。
まず冒頭には、
「六月十四日午前九時より開場するとて横浜羽衣座が各所に撒いたる引札には怖ろしい事が書いて、ありとにかく珍しいものゆえ御覧に入るる事とせり」
と記してあり、猿猴栄次また自らの懺悔劇を羽衣座で上演したことが伝えられている。すなわち横浜育ちの長谷川先生はこの頃見物されたものであらう。
またその広告の標題には、
『貧児教育慈善
開演御披露
演演劇会一座
旧大悪人
無期徒刑囚特赦減刑人
猿猴小僧事
明治噂白浪三羽烏一人
[#ここから7字下げ]
本名 市村栄次郎
旧福井県士族当四十七年
[#ここで字下げ終わり]
とこう書いてあって(明治白浪の三羽烏とは、他に鼬《いたち》小僧や雷小僧などが数えられるのだろうか)そのあと明治十六年には、京都の某貴族邸から二葉の鏡を盗み出して捕縛、翌十七年京都監獄を放火脱走、またまた北海道乗治監へ護送後も石狩川に架設の三百二十有余間の電線を伝わって逃亡した等々、仔細にその罪状が極めて猟奇的な筆致で紹介されている。
高座から桟敷へ。針金張りめぐらして身も軽く渡ってのける、太郎の監獄破りの離れわざは、なるほど、この猿猴栄次を宗としたものにちがいない。
同じ時、長谷川先生のおたよりの中には、またもう一ついかにも日本太郎らしい逸話が書かれてあった。
それは、今の「東京新聞」、その頃の「都新聞」の演芸部へ、一日、談判があると言って例の柔道着には握り太の桜の洋杖で、太郎、堂々と乗り込んできた。
須田栄君が応待に出ると、いきなり懐中から短刀を取り出して彼、ズケリと卓子の上へと置いた。
須田君もさすがに心中いささかギョッとしていたら、急がず騒がず悠然として、やがてのことに日本太郎はその短刀で、醜く長く伸びていた己れの手の爪を一つ一つ削りはじめたというのである。
彼の全面目が躍如としている。
私の聞き知っている逸話では、本所辺の縄のれんで、三下のあンちゃんが、因縁をつけてしきりに管を巻いていた。
居合わせた太郎がこの喧嘩を買ってでて、恐らくその須田君をちょいと冷やりさせたのと同じ短刀だったのだろう、ギラリ鞘抜き放って若いのの前
「ヤイそこな奴、こいつが手前ア怖かぁねぇのか」
と芝居がかりで飛び出していって睨みつけたら、
「冗、冗談言うねぇ」
さすがにチンピラでも、やくざものの端くれ、
「そんなものが怖くって、縁日の肥後守を売ってる爺さんの前が通れるけえ」
とばかり、これがてんで受けつけない。
「おやこの野郎」
一瞬、いささか、鼻白んだが、さりとて到底このまま引き下がってしまえるわけのものでもない、ようし一の矢が外れたらすかさず今度は二の矢といこう、どっこいこっちにゃまだまだ奥の手がちゃあんとあるんだとばかり太郎、
「若僧。じゃ、短刀は怖くねぇのか」
「ねぇ!」
「ウムいい度胸だ」
ニンマリ笑って、
「ならこれだ今度ァ」
いきなり懐中へ手を入れるが早いか、ニョロニョロと掴み出した、かねて寵愛の赤棟蛇、ゾロッとそいつを卓子の上へ置いたら、
「ウ、ウワーッ」
よっぽど[#「よっぽど」は底本では「よっほど」]蛇嫌いだったとみえる、あンちゃんたちまちいまし方までの威勢はどこへやら、全身|俄《にわか》に強烈な電気にでもかかったように硬直して棒立ち、身体中真っ青になりつくして、後をも見ずにアタフタ表の方へ駆け出して行ってしまった。
「ざまァ見やがれ青二才め」
凱歌を上げると日本太郎、どうやら清水次郎長か国定忠次にでもなったつもり。千古の危急を救ってやったここの主人からは御礼の百万遍も言ってもらおうとふン反り返っていたら、あに図らんや、とたんにコック場の方から出てきた主人の機嫌がすこぶるよくない。そうして、言った。
「もしその蛇を持ってるお客さん、余計な真似をしちゃ困るじゃないか。今の若い衆から、うちはいまだお勘定もらってねぇんだ。お前さんあの人の分もいっしょに払ってっておくんなさい」
「…………」
この日本太郎、『寄席囃子』の中の随筆では娼妓上がりの娘にいい旦那ができ、晩年すこぶる幸福と書いたのだが、そののち古川緑波君その他の話を総合してみるとやはり、それはまちがいでどうやら晩年は悲惨だったらしい。私は衷心、この説の誤聞であることを祈ってやまないが、それにしても彼が死んでからもう何年になることだろう。歴史は繰り返す。私は最前からこの短い文章の中で二度もこの言葉を記したけれど、わが日本太郎のごとき存在だけはついにそののち今日まで寄席の歴史の中へ再びとは生まれてこなかった。恐らく今後悠久にああしたよきげてものは、再生してこないのではなかろうか。
底本:「寄席囃子 正岡容寄席随筆集」河出文庫、河出書房新社
2007(平成19)年9月20日初版発行
底本の親本:「艶色落語講談鑑賞」あまとりあ社
1952(昭和27)年12月刊
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2009年1月13日作成
青空文庫作成ファイル:
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