名優の模写を演るたんび、必ず扇子で顔を隠し、その扇のかげで演じた。
 ただし、彼らは顔中をクシャクシャにしかめたところを見せながら演ったのでは、あたら美男の名優たちのおもかげをほうふつたらしめるべく、感興や効果を殺《そ》ぐといみじくも考えたからなのだろう。そうした、そんな時代の、ある初夏の真昼。
 多くの酔客通人を乗せて隅田川へ漕ぎいでた屋根舟に、万緑叢中紅一点、婀娜《あだ》な柳橋の美妓があった。
 飲めや歌えや。いまだその頃の隅田川は広重の絵をそのままの別天地で、鯉も鰻も白魚も漁れ、
※[#歌記号、1−3−28]佃育ちの白魚さえも、花に浮かれて隅田川――の唄のとおりで、一同惜みなく歓を尽くした。
 と――かの美妓、尾籠《びろう》な話だが、急に尿意を催してきた。美妓だろうが、名妓だろうが、こればかりは仕方がない。
 が、さすがにそこは柳橋仕込みの馴れたもので、スーッと舟べりへしゃがむと、しずかに裾を捲り、小さい美しい白扇で前を隠して、用をたしはじめた。
 とたんにサッと擦れちがった彼方の船の客の言い草がいい。
「オイ見ねぇ。ヨニ(女陰《ちょいん》)が声色をつかってやがらあ」
 まさかヨ
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