しく、サイレンが時々鳴き出す頃で、昭和十七年おぼろ夜、緑波君と脚色者の斎藤豊吉君と桂文楽、林家正蔵(当時は馬楽)両君と私たち夫婦で、女房の門下生の若い妓がズラリ十何人並んで何とこの勘定が七十余円、思えばゆめです。
 そういえば、永らく病臥していた柳家権太楼が、かつては文楽座で名人越路太夫の門人だったとやらで義太夫が自慢、一夜お客と大塚へ来て酔余、義太夫を語ったら、侍った芸者がじつによく弾く。
 そこで今度は権太楼浪曲を唸ったら、老妓またこれをおよそ達者に弾きまくる。
 少なからずテレて彼、その老妓の正体を洗ってみたら、いずくんぞ知らんや、浪曲界の奇才と謳われた先代浪華軒〆友の未亡人で、かつて女義太夫のベテラン。
 それじゃあ、浪曲も義太夫も巧いのが当たり前、権太楼先生ギャフンとまいった。
 〆友未亡人、小でっぷりした赤ら顔の人だったが、終戦後も健在だろうか。
 あの頃より国電の土手沿いまで大塚花街は発展したと聞くけれど、かの未亡人を思うにつけ坊野寿山子が川柳の巧さよ。
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義太夫の芸者のような太りかた
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 ついでに今少しく寿山子の花柳吟をあげ
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