かりでこの老練の浪曲節はいっこうに詳しいことを語ってはくれなかった。他に海賊房次郎や蝮《まむし》のお政がそれぞれ自叙伝を劇化させ、自ら劇中の主人公即ち本人となって出演したこともあったが、これらは寄席ではなく、劇場での話ゆえ、ここでは省こう。
とまれ、花井於梅が寄席へ出たのは、今日の阿部定が、自演の劇を打って歩いているのとまったく同じ理合である。五寸釘寅吉の登場は、これも今日の妻木松吉説教強盗が各所で講演して歩いているのに少しも変わらない。かくして歴史は繰り返す、小平義雄が万々一死刑を免れ、出所したなら、出歯亀同様、寄席へ出て、同じく上演禁止となることだろう。
被害者の方が、寄席へ出演したのでは、明治末年の大阪堀江六人斬事件で両腕斬り落とされた薄幸の芸者妻吉がある。戦前、この惨劇は映画化されて、森静子が妻吉に扮したことがあったが、妻吉は全快後事件の発祥地たる堀江の賑江亭という寄席へ演したのを皮切りに、東京の寄席へも進出して素晴らしい評判をかち得たのである。自ら口へ筆をくわえて高座で絵を描いたり下座の三味線で両手のない私に惚れるのが一番安全だ、手練手管はさらにないわけだからという意味の都々逸を諷《うた》ったりしたのが、おおいに江湖の同情を招いたのだろう。
いかに妻吉に人気があり、収入も多大だったかということは、この間、宇都宮の旅先で手に入れてきた瀬戸半眠翁(瀬戸英一氏巌父)の市井小品集『珍々間語』の中の「斯親子」という阪地の安芸者とその母親との葛藤を叙した一節に、
「かの堀江の妻吉さん見いなア万次郎のために両腕落とされてやったけど、寄席へ出てもこのとおり大人気で両親を楽々養うて、おまけに東京からも買いに来て、東京へ行きやはってもえらい評判で、手取り千円も儲けてきたやないか。お前も甲斐性があるなら、彼の真似をしてみい、できやひょまいが、私にもかような娘が三人もあったら、小借家の七、八軒も建てて家主の御隠居様で暮らしていけるもの、アア辛気くさいことやなア」
云々をみても、よくわかるだろう。
また明治三十四年新版の「東京落語花鏡」という番付を見ると、日本手品の柳川一蝶斎や独楽の松井源水と並んで、バカントラの名前がみえる。
バカントラ。片仮名でかいてあっても、ブラックやジョンペールのような外人ではなく、まさしく日本人。けだし、バカントラは、下関生まれの馬関寅だった
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